文章

僕はそうでもないけどね

 権力者にしてはやけにこじんまりとしたこの屋敷の主は、実際のところ彼――バールではなく、娘のであるらしい。 この家は彼女のために用意した別邸であるのだそう。道理でやけにシンプルな造りをしていたわけだ――そう納得する傍ら、アベンチュリンの瞳に…

バラと蜂蜜

 バラ色の絨毯を踏みしめながら歩く屋敷内は、噂に違わぬ品性を保った造りをしていた。これだけの資産があれば大抵の人間は華美なインテリアをここぞとばかりに飾りつけるものだが、どうやらこの屋敷の主はその法則に当てはまらないらしい―― 彼がスターピ…

あの日の裏側で

「旅人さんへのプレゼント……ですか?」 神妙な面持ちのディルックを前に姿勢を正したのは、ほんの五分ほど前のことだった。 こんなにも難しい顔をしているなんて、何か深刻な事件が起こってしまったに違いない――そう覚悟を決めて話を聞くと、どうやら先…

大切で特別な一日

 近頃、カレンダーを見ながらため息を吐く回数が増えた。理由はひどく簡単なことで、月末に控えた一大イベントに向けての準備が、何も整っていないからだ。 今月末――来たる4月30日には、他でもないディルックさんの大切なお誕生日がある。わたしにとっ…

おわりの詩

 ――もしもわたしが、いなくなったとして……重雲は、わたしのことを忘れないでくれる?―― 今際のわたしが発した言葉は、ともすると重雲にとって、ある種の呪いとなってしまったかもしれない。なぜならば、倒れ伏す直前に見た重雲がわたしのことを想い、…

いつだって一番そばに

 家を継ぐ者として、涙腺の緩さは大敵だと思っていた。  自分は幼い頃からひどく泣き虫で、それこそ少し驚かされたくらいで簡単に涙が出てしまうような子供だった。 特段気が弱いわけではないのだが、ちょっとした刺激ですぐに涙がこぼれてしまう。嬉しい…

合図

 こん、ここ、こん、こん。独特のリズムで叩かれた窓へ、反射的に飛びついた。薄いガラス板の向こうには見慣れた手袋が覗いていて、張りつめていた精神が一気に緩むのを感じる。「彼」が訪れてくれた安心感により、ついつい気が抜けてしまったのだろう――シ…

君のための宝物

「受け取れよ」 ぽん、とやさしく投げ渡されたそれを、両手で丁重に受け取った。 クラフト素材の紙袋はかさりとした小気味良い音を立て、シャルロットのちいさな手のひらのうえで誇らしげに胸を張っている。紙袋はリボンの形をしたモノクロのシールで可愛ら…

はじめて触れたもの

 セキに手を引かれながら帰路につき、とりわけ軽い足取りで集落へと帰ってきた。 こんなにもおだやかな気持ちで帰ってこれる日なんてなかなかない――そんなことを考えながら、隣を歩くセキの横顔を何度も見上げた。いつもどおり自信に満ち溢れた彼の表情だ…

ショッピングでも行かないか?

「連続少女失踪事件ねえ……」 スチームバード新聞の一面を陣取るその名称に、思わず眉をひそめてしまった。このフォンテーヌでは何らかの事象によって複数人の少女が行方不明となっており、それらをひとつの事件として関連づけているらしい。「少女」という…

二年目のわたしたち

 なんてことない平凡な朝が、至上の幸せであることを知っている。ぱち、ぱち、寝ぼけ眼を瞬きしても消えたりしない愛しい人が、すぐ目の前にいることも。 のみならず、おそらく彼もまだ少し夢うつつの状態なのだろう。普段よりもとろけた赤い瞳が、ことさら…

夢見が悪いわ

「――今ので五回目のため息。お兄ちゃん、さてはのこと考えてるのね」 不意に投げかけられたリネットの言葉。予想外のそれにリネは大げさに肩を跳ねさせ、あまつさえその場ですっ転んでしまいそうになった。 ばくばくと激しく動く心臓を押さえながら、背後…