大切で特別な一日

 近頃、カレンダーを見ながらため息を吐く回数が増えた。理由はひどく簡単なことで、月末に控えた一大イベントに向けての準備が、何も整っていないからだ。
 今月末――来たる4月30日には、他でもないディルックさんの大切なお誕生日がある。わたしにとって、もはや自分の誕生日より何倍も大切で特別な日だ。
 誕生日のお祝い自体は何度かしたことがあるけれど、今年は今までと少しだけ心構えが違う。なぜなら今回は、ディルックさんと一緒にいられるようになって初めて迎えるお誕生日だからだ。
 ずっとずっと大好きだったディルックさんのお誕生日を、誰よりも近くでお祝いすることができる、初めての日。だからこそ、いったいどんなふうにお祝いをすればいいのかがわからず、頭を悩ませることがどうにも増えてしまっているのである。
 特別に特別を重ねた日であるのならお祝いもなおさら特別なものにしたいけれど、わたしにできることなど正直ひどく限られている。人より秀でた特技があるわけでも、お金をたくさん持っているわけでもないし……そもそもディルックさんはモンドで一番のお金持ちなのだから、お金で解決できるお祝いなんてものは、むしろ見飽きているレベルかもしれない。
 今のわたしじゃないとできないことと言われたら、それこそ恋人という立場を使ったものなのだろうけれど――果たして、それでどんなふうにお祝いをすべきなのだろうか。そういった引き出しはあまり多くないし、下手に知識を仕入れてきてディルックさんに不快な思いをさせてしまったら、それこそ本末転倒だ。
 恋人として心を尽くすにしたって、気持ちを伝えることも、心を込めて接することも、日頃から常にやっていることなのだから、特別感はひどく薄れてしまう。
 ――どうすればいいんだろう。誰かに相談することもなんとなく気が引けて、毎晩眠るたびに当日が近づいてくる、その事実が少しばかり歯がゆい。
 大切な日であるはずなのに、その日を思うととめどなくため息を漏らしてしまう自分が、今だけは少し嫌だった。

 そうして悩み続けたわたしの出した結論は、もういっそディルックさん本人に直接訊いてしまおう、というものだった。
 サプライズ的なお祝いを求められていたのであれば申し訳ないが、とんちんかんなことをしでかしてしまったり、これ以上の鬱屈とした姿を晒してしまったりするよりは、本人に訊ねたほうが何倍も早く、建設的だと考えたからだ。長い付き合いであればそういうのもなんとなくわかるのだろうけれど、わたしが彼と深く触れ合うようになってからは、まだ一年も経っていないから。
 意を決してわたしが仔細を話すと、ディルックさんは数回瞳をしばたたかせたあと、いつもどおりの柔らかな微笑みを見せてくれた。

 ――特に何もしなくていいよ。ただ君がそばにいてくれさえすれば、僕はそれで充分だ。

 しかし、ディルックさんの返答はひどく予想外で――彼の優しさを思えば納得できるものではある――あまりにも無欲なものだった。
 わたしが返答に目を丸くしていると、ディルックさんは整った造りの眉を少し下げながら、わたしの頭を撫でてくれる。その些細な触れ合いにすら彼の優しさが満ちているようで、つい顔が緩みそうになってしまった。

 ――僕たちは、同じ家で暮らしているわりに共に過ごせる時間が短いだろ。だから、特別な日にはせめて、君と過ごす時間を増やしたい。君を独り占めしたいんだ。
 ――そんなことしなくたって、わたしはずっとディルックさんの――
 ――わかってるよ。これはすべて、僕の気持ちの問題なんだ。……僕は、自分で思っている以上に心が狭いらしいからね。

 困ったように微笑むお顔に、ぎゅ、と胸が締めつけられる。とうとう何も言えなくなって頷くだけになったわたしを、ディルックさんは何も言わずに優しく抱きしめてくれた。
 お祝いをするための準備をしていたはずなのに、どうしてわたしがディルックさんに優しさをもらっているのだろう。それは形あるもののみならず、たとえば思い出だとか、気持ちとか……ディルックさんは、そういったものをいつも惜しみなく、わたしにたくさん与えてくれる。
 嬉しい反面、どこか歯がゆくもあるこの気持ちを、どうにか当日に晴らすことができたら――ディルックさんに、わたしなりのお返しができたら。彼のあたたかな腕のなか、わたしは当日に向けて決意を新たにし、そっと身を寄せたのだった。

 
  ◇◇◇

 
 そうして迎えた4月30日は、わたしの想像より何倍も慎ましく、幸せな一日となった。
 アデリンさんやエルザーさんが気を利かせてくれたおかげで、なんと当日、ディルックさんはまる一日のお休みをいただけることになった。前日にもらったその知らせがたまらなく嬉しくて、思わず飛びついて喜んでしまったわたしを、ディルックさんは変わらない優しさを保ったまま受け止めてくれた。
 大げさに喜ぶわたしを見る赤い瞳は、驚きを滲ませこそすれ、いつもどおりの柔らかな色をしていた。微笑ましそうにくつりと笑う吐息が、温まった空気をささやかに揺らしたのを覚えている。
 その優しさがかえってわたしの羞恥心を煽り、今すぐこの場から消えてしまいたくなったけれど――ディルックさんと一日中一緒にいられる喜びに比べたら、そんな羞恥はもはや存在しないも同然だ。先立っての恥ずかしさなんてすぐに外へと放り出して、わたしは改めて、ディルックさんのお誕生日とまっすぐ向き合うことにした。
 
 お知らせをもらって以降のわたしたちは、まるでお出かけを待ちきれない子供のように、ひどく密接な時間を過ごした。何をするにもずっとくっつきっぱなしで、文字通り片時も離れずに夜を明かす――こんなふうに過ごすのはほとんど初めてだったから、どことなく新鮮な気持ちもあったかもしれない。
 またわたしがもらってばかりだという罪悪感も時おりよぎったが、そんなものは知らぬ間にどこかへ霧散していた。なぜなら、他でもないディルックさんもまた、ひどく幸せそうな笑顔を見せてくれていたからだ。
 そうして、誰にも邪魔されない一日をわたしたちは過ごし――明日からはまた元通りの日常に戻るのだというある種の寂寥を抱えながら、同じベッドに身を預けていた。手を繋いだまま何気ない会話を何度も重ねるうち、ちょうどまどろみが襲ってくるくらいの夜の気配が、わたしたちに忍び寄ってくる。
 宵の口がすっかり姿を消した頃のこと、意外にも先に眠気をあらわしたのはディルックさんのほうだった。ディルックさんはいくらか無防備なあくびを晒したあと、すまない、とちいさな謝罪だけして、目尻の涙を拭う。

「そろそろお休みになりますか?」
「いや……大丈夫だ。せめて、日付が変わるまでは起きていたい」
「でも、明日からはまたお忙しいのだし、大事をとって休まれたほうが――」

 ディルックさんが、まるで言葉を遮るようにわたしのことを引き寄せる。後頭部にまわされた手のひらはがっちりとわたしのことを捕らえていて、やがて戯れるようなふれあいが何度も繰り返されると、わたしの頭はすっかり蕩け、ものも言えなくなってしまった。
 すっかり呆けてしまったわたしを、ディルックさんはことさら優しく抱え込む。合間に目に入った彼はどことなく拗ねたように口を尖らせていて、ぼんやりした頭の真ん中には、その愛らしさが強く印象づいた。

「……このまま眠ったら、また君はいなくなってしまうだろ」
「え……?」
「僕が目を覚ます頃になると、君はもうすでにこのベッドを出て、モンド城に向かっていることが多い。仕方ないことだとわかってはいるが、その事実を歯がゆく思うときもあるんだ」

 わたしを抱き込む優しい腕に、ぎゅう、と確かな力がこもる。たくましいそれにこめられたのは、きっと単純な力のみではないのだろう。
 ――わたしは、とても悪い女だ。彼を置いていってしまう日々に罪悪感をおぼえる反面、大好きな人が淋しさを感じてくれていることに、どうしようもない喜びを得てしまっている。わたしという存在によって感情を揺らしてくれている、それがたまらなく嬉しいのだ。
 おのれの貪欲さと浅ましさに嫌悪感を滲ませつつも、それを上まわるのは他でもないディルックさんへの愛おしさだった。わたしは彼に負けないくらいの力と思いを込めて、その身を思い切り抱き返す。
 わたしがひと言「大丈夫ですよ」とささやくと、ディルックさんは怪訝そうにちいさく体を揺らした。

「わたし、明日もちゃんとおそばにいます。ディルックさんの目が覚めるまで、きっと、ここにいますから」

 だから、もうそんな顔をしないで――ディルックさんの腕から抜け出すように手を伸ばし、ほんの少しだけしょぼくれた、精悍な頬に指を這わせる。
 わたしの行動が予想外だったのか、彼の双眸は珍しくも見開かれ、澄んだ赤の奥にわたしのすがたが映り込んでいるのが見えた。

「ずっと一緒にいます。だから、今日はもうお休みになって」

 指先を頬から耳、後頭部へと滑らせて、彼の頭を撫でてみる。いつも、当たり前のようにディルックさんが与えてくれていることのひとつだ。
 わたしの不慣れなそれでも、ディルックさんは安らいだように目を閉じて、すり、と頬を寄せてくれた。その一連の所作はまるでちいさな猫ちゃんのようで、胸が張り裂けるのではないかと不安になるくらいの愛おしさが、奥からどんどんあふれ出してくる。

「おやすみなさい、ディルックさん。どうか、いい夢を見れますように」

 すう、と力を抜いたディルックさんを見届けてから、わたしもそっと目を閉じる。このまま一緒に眠りに落ちたいけれど、まだ少しだけ考えておきたいこともあるし、まどろむ頭をなんとか働かせる。議題は他でもない、花言葉についてだ。
 念のため、今日明日と連休をもらっておいてよかった――そう安堵をおぼえる反面、明日はディルックさんを見送ったあと、午後にでも花言葉へ顔を出そうと決意する。これからの出勤時間に融通を利かせてもらうことはできないだろうかと打診するためだ。
 早朝、まだ夜も明けきっていない時間からモンド城まで向かうのは、正直なところ少しつらい面もある。だから、ちょうどいいといえばちょうどいい。みんなに迷惑をかけることになってしまうかもしれないが、そのぶん遅くまで残れるだろうし、何よりディルックさんの淋しさを少しでも減らせるのなら、それに越したことはない。問題はフローラさんたちにどうやって納得してもらうかだけれど――まあ、それに関しては明日のわたしがなんとかしてくれるだろう。
 難しいことを考えるのはそろそろやめにしよう。甘えたようにすり寄ってくる体を優しく抱きしめながら、わたしもそっと、夜の向こう側に意識をやる。
 わたしたちの特別で静謐な夜は、のどかな香りを湛えたまま、まだまだ明ける気配を見せないのだから。

 
2024/04/30