おわりの詩

 ――もしもわたしが、いなくなったとして……重雲は、わたしのことを忘れないでくれる?――

 今際のわたしが発した言葉は、ともすると重雲にとって、ある種の呪いとなってしまったかもしれない。なぜならば、倒れ伏す直前に見た重雲がわたしのことを想い、悩み、そればかり考えて仕方がないような顔をしていたからだ。
 その瞳にあったのは、きっと迷いばかりだったのだと思う。どう答えればいいのかわからないで、あのまっすぐな瞳を困惑で濁らせているように見えた。善良な人間であればその居姿はひどく痛ましく映るのだろうけれど、残念ながらわたしは善い人ではないし、悲哀に沈む彼を前に胸を痛めるどころか、むしろ安堵感すら覚えてしまった。
 ――ああ、やっとその顔を見ることができた、と。 
 今際の際に立つわたしは、黙りこくった重雲を前にそれまでの人生で感じたことのない満足感を抱いた。そして確信したのだ、「もう大丈夫だ」と。
 わたしはきっとやり遂げた。ずっと成し遂げたかったこと、わたしにとっての生きる意味を、「願い」を、あの瞬間に完遂したと実感した。
 だからわたしは、手を離した。重雲からも、この世界からも。わたしとこの世をつなぐ糸から――「生」と呼ばれるものから手を離して、すべての痛みからおさらばした。
 
 正直に言うのであれば、もうそろそろつらかったのだ。
 生まれたときから体を襲っていた痛み――わたしにとっては日常的なものであるけれど、だからといってそこに「慣れ」が発生することはない。毎日おのれを蝕むそれに、いよいよわたしの心は限界を感じはじめていた。
 わたしだって痛いのは嫌いだし、ずっとずっと、苦しかった。
 長らくの間それらはわたしを襲っていたけれど、ここ最近はひときわだったように思う。それこそ近頃は呼吸にすら苦痛をおぼえるようになっていたのだから、我ながらよく耐えたな、と自分を褒めてやりたいくらい。
 だからきっと、いい機会だった。此度の別れは、もはや必然だったと言ってもいい――
 わたしはあの日、体だけでなく、心も寿命を迎えたのだろう。だからこそ、最後の最後に「死」という救いを求めてしまったのだ。

 わたしの勝手な判断を、果たして重雲はどんなふうに受け取ったかな。
 またお前はぼくの話を聞かないで、なんて言いながら可愛い顔をちょっとだけぶすくれさせて、もうどこにもいないわたしに対して、言葉をかけてくれていたりするかな。それとも、わたしのことを忘れられないで、誰よりも傷ついたような顔をしていたりするのかな――
 正直なところ、重雲がわたしのことをどんなふうに思っていたって、わたしにはあまり関係がない。わたしにとって重要なのは感情の種類ではないし、何よりわたしには確信がある。重雲は今もわたしのことを考えてくれているって、それだけははっきりと言えるんだ。
 だって重雲は、昔からずっとわたしのことを好きでいてくれたもんね。
 ……ごめんね。わたし、本当は全部気づいてたんだ。重雲がわたしのことをどう思っているかも、その想いを伝えようとして、何度も機会をうかがっていたことも。遮ってばかりでごめん。嘘ばっかり吐いてごめん。でも、どうしてもあれ以上を言わせるわけにはいかなかったんだ。
 だって、それを成し遂げてしまったら――「伝えられた」という満足感を得てしまったら、重雲はいつか、わたしのことを忘れてしまうかもしれないでしょう?
 あなたに好意を伝えさせるわけにはいかなかったから、わたしはずっとそれを遮ってきた。あなたに勝たせるわけにもいかなかったから、死にものぐるいで戦って、何度もあなたを負かしてきた。「言えなかった」「勝てなかった」「できなかった」そんな後悔ばかりを、あなたに刻みつけたかった。
 人の心というものは、喜びよりも苦しみや悔しさといった負の感情のほうが強く刻みつけられる。それを知っていたからこそ、わたしはあなたの心にたくさんの傷をつけたかった。あなたに、忘れてほしくなかったから。
 あなたの記憶にわたしという存在を刻みつけて、他でもないあなたのなかで、「わたし」を生かしてほしかったんだ。
 
 あんまりひどいことばかりしたから、もしかしたらわたしのことなんて嫌いになっちゃったかな? でもね、わたしはそれでもいいんだ。なぜならわたしの願いは、重雲に好きになってもらうことじゃなく――重雲に忘れられないこと、重雲のなかにずっと残っていくことだから。
 自分が普通の人と同じような人生を歩めないことなんて、ずっと昔から気づいてた。だから、わたしが生きていく術はこれくらいしかなかったんだ。
 あなたと一緒にいたかったから、わたしは絶対、死にたくなんかなかった。……ううん、「死にたくない」より「消えたくない」のほうが近いかな?
 とにかく、あなたが忘れないでくれさえするなら、悔いであろうと憎しみであろうと、感情は何だってよかったんだ。わたしは重雲の「傷」に、消えない証になって、あなたのそばに在りたかっただけだから――

 ――なんて、重雲がわたしのことをそんなふうに恨んでいられるわけないよね。あなたはわたしと違って、とても優しい、純粋な人だもの。
 でもね、一生わたしだけを想っている必要はないんだよ。……ううん、むしろ、あなたにはきちんと前を向いてほしい。わたしのことを過去にして、新しい人を好きになって、結婚して、子孫を残して――この璃月という土地で、子々孫々の歴史を紡いでいってほしいんだ。
 ただ、ちょっとだけ人騒がせな――そうだな、たとえば「初恋の人」としてのわたしを忘れないでいてくれたら、それだけでわたしは幸せだから。
 わたしのことは忘れないでほしいけど、わたしだけにこだわることはしないでね。わたしを引きずったりしないで、あなたはあなたらしく、まっすぐに前を向いて、ひたすら透明なあなたでいてね。
 わたしへの恋は、ちゃんと過去のものにしなきゃダメだよ。あなたはわたしとは違う。わたしみたいに諦めないで、強く、ひたすら強く生きていってね。
 それこそが、わたしのだいすきな重雲のすがたなんだから。

 本当は、この気持ちを伝えるつもりなんてなかったけど――それで重雲が潰れてしまったら本末転倒だから、ちょっとだけヒントを残していくね。
 あなたがどうしても迷ってしまったとき、このあいだの詩歌大会で書いた、わたしの詩が届きますように。この詩を読んだあなたに、わたしの想いがきちんと伝わりますように……他にもいろんな願いを込めたから、どうか受け取ってくれると嬉しいな。
 
 今までありがとうね、重雲。そして、本当にごめんなさい。自分勝手なわたしのことを、どうか忘れないでいてね。
 この言葉があなたに伝わることは、きっといつまでもないだろうけど……わたし、ずっとずっとあなたのことが大好きだよ。

 
  ◇◇◇
 

「……よし。これでいいか」

 冷たい風に吹かれながら、携帯していたメモに詩歌をひとつ書き残した。知らぬ間に日が傾いているあたり、どうやら思ったより集中してしまっていたらしい。璃月を象徴するようなオレンジに染まる世界を眺めながら、ふう、と深く息を吐いた。
 不慣れな指で紡いだ詩歌をちいさく畳んで、桃琳の眠る土へと埋める。できるだけすぐ届くようにと、叶う限り深くへ。
 人の墓に手を入れるようなことはしたくなかったけれど、どうか今回ばかりは見逃してほしい――そんな懺悔を捧げながら、奥深くへとそれを埋め込む。
 ……傲慢な考えかもしれないが、なんとなく思うことがある。桃琳であれば、ぼくが少々不躾な真似をしても許してくれるのではないかと――この身勝手な確信が生まれた理由はおそらく、桃琳が常日頃からぼくに伝えてくれていた「だいすき」に他ならないだろう。
 彼女の遺してくれた一篇はしっかりとポケットに仕舞い込んだ。帰宅したら改めて読み、丁重に保管するつもりだ。

「じゃあな、桃琳。ぼくは行く。……もちろん、すぐに会いに来るつもりだ」

 桃琳の遺してくれた詩のすべてを、しっかりと読み取れた自信はない。お互いこういった文化にはあまり馴染みがなかったし、不慣れな部分はきっと随所にあるだろう。ぼくの残した詩も同じく、あの文字列に込めた感情のすべてを桃琳が読み取ってくれるとは限らない。
 ……けれど、それでもいいと思えた。元よりぼくたちは他人だったのだし、ずっとずっと不理解で、すれ違い続けていた身分だ。今までがそうだったのなら、この関係が変わることなど、きっとこの先もありはしないだろう。
 このすれ違いがぼくたちの間に遺る「絆」のひとつに他ならないのだとしたら、ぼくはそれすらも大切にしていきたいと思っている。
 今すぐ切り替えて上を向くことはできないけれど、ほんの少しだけ視線を上げることくらいはできる……かもしれない。
 きっと、それこそが桃琳の願いであるのだろうから。

「……どうやらぼくは、自分の知らぬ間にずいぶん傲慢になってしまっていたようだ。少し、お前に似たのかな」

 ぼくが「すべて」を終えるその日まで、きっと桃琳は待っていてくれる――その確信が揺らぐ気配などいっさいなく、ぼくは何よりもその確信を、事実として信じられるような気がした。
 懐にしまっていた「神の目」を、力強く握りしめる。ほんのりとあたたかくなったようなそれを見つめて、ぼくは桃琳の墓に背を向けた。
 やさしく背中を押してくれる追い風は、桃琳の手のひらと変わらぬ肌ざわりをしている。

 
2024/04/20