僕はそうでもないけどね

 権力者にしてはやけにこじんまりとしたこの屋敷の主は、実際のところ彼――バールではなく、娘のダーリヤであるらしい。
 この家は彼女のために用意した別邸であるのだそう。道理でやけにシンプルな造りをしていたわけだ――そう納得する傍ら、アベンチュリンの瞳にはこの屋敷のすべてが優しくも堅牢な檻のように映る。
 いっさいが彼女のために誂えられているのに、どうして言い様のない寂寥をまとっているのだろう。ぬくもりの奥にある冷たさを拭いきれないこの屋敷は、もはや鉄の塊でできた牢屋と何も変わらない。
 彼女は憐れなかごの鳥だ。否、もしくは逃げ場のない檻のなかに囚われた、無知なカモとでも言うべきか。
 軽く自己紹介をすませた後、ダーリヤは一旦私室のほうに戻された。二人で大事な話をすると言えば彼女は素直に従って、あまつさえアベンチュリンにまばゆい笑みまで向けてくる始末だ。
 ――初めて見るのに、どこか見慣れた光景である。ダーリヤのつくる笑顔はエヴィキン人のそれそのものであり、脳の奥深くに焼きついた家族の面影を思い起こさせるに充分なものだった。 
 扉の隙間に消えていったちいさな背中を見送りながら、どうしてこんなことばかり考えてしまうのだろう。初対面の人間に向けるべきではない感情ばかりが腹の底から湧き上がってきて、今にも窒息してしまいそうだった。
 
 屋敷は部外者の立ち入りを禁じられているため、バール以外に立ち寄るような無法者はいない。加えて使用人も信の置ける精鋭のみに絞られているらしく、徹底的に外部と断絶した世界が築かれている。
 もちろん、カンパニーのような高い技術を持った勢力から完全に隠れられるとは思っていないはずだ。とはいえ何もしないよりは遥かにマシだし、この屋敷を覆う硬くも脆いネットワークは、きっとある種の「お祈り」のようなものなのだろう。
 かつて新米をこの屋敷に入れたときには、やはりというべきか否か、要らぬ手間をかけられたのだという。やれエヴィキン人だのやれ見目麗しき女だのと騒ぎ立て、今にも情報を漏らされそうになったと――どうしてそんな話を初対面の自分にするのかと訊ねると、バールは小さな咳払いと共に「ただの牽制だよ」と宣った。
 彼は娘をひどく大事にしているようだ。愛娘が要らぬそしりを受けるエヴィキン人であるがゆえに、汚い世間の目から守るため、こうして大きなかごのなかに入れて大切に大切に育てている。それが自由を奪う結果であることを承知のうえで、このような愚行に及んでいるのだ。

「このままではいけないとわかっている。しかし、娘を守るためにはこうするしかなかったのだ。私にはこんな方法しか思いつかなくてね」
 
 バールの目尻から滲む父性というものを、アベンチュリンはどこか忌々しい気持ちで見ていた。
 彼にはついぞ向けられなかったものだが、この男が注いでいる重苦しい感情もまた、世間からすればれっきとした「愛」と呼べるものなのだろう。

「しかし、どうして彼女を買ったんだい? 見た目が綺麗だから? それとも、稀少なエヴィキン人だから? もしくは、何か別の用途で――」
「とんでもない。私が彼女を商品だと思ったことは一度もないよ。かつてカンパニーに所属していた頃、ツガンニヤに立ち寄ったことがあってね――今にも殺されそうになっていたところを保護しただけさ」
「君がカンパニーの元社員だというのは初耳だけど? そのうえ君のような人間が負傷した少女を引き取るなんて、どんな思惑があったかわかったもんじゃないね」
「彼女の美しさに心を奪われてしまったんだ。親はおろか、その腕までもをなくしてしまった幼い子どもを、私は放っておくことができなかった」
「はは……それはそれは、随分と立派なことだね」

 吐き捨てるような物言いになってしまったのは、きっと自分のなかにある苛立ちがそうさせたのだろうと思う。目の前に広がる歪ながらも柔らかで優しい世界は、同じエヴィキン人であるアベンチュリンにとってはひどく眩しい、毒のようなものだった。
 こんな些細なことでペースを乱す自分がみっともない……が、この迷いを引き出しているのはきっと、あの少女が湛えていたまばゆい蜂蜜の色、それである。
 たとえば、それがひどく窮屈で息の詰まる生活であったとしても。空虚と同居する日々を、どこか潰すように過ごしているのだとしても――その平穏に満ちた世界は、何も持たず、ただおのれの命と幸運のみを頼りに生きてきたアベンチュリンにとって、鈍くこの身を揺さぶる要因に他ならない。
 ……僕には、一生手に入れられないものだ。

「他人からどう思われていようと、あの子が私の大切な娘であることに変わりはない」

 アベンチュリンが何を言おうと、どんな態度を取ろうとも、彼が冷静さを失うことはなかった。 
 その父親然とした姿は彼にとっていっさい馴染みのないもので、その様子もまた、みみっちい苛立ちを強く刺激する。
 先に言葉を切ったのは、やはりアベンチュリンのほうだった。

 
  ◇◇◇

 
「アベンチュリンさん! お父様とのお話はもう終わったの?」

 さっさと話を切り上げたバールは、踵を返そうとするアベンチュリンをダーリヤのいる私室へと向かわせた。
 大切な娘の私室に僕のような無法者を連れて行っていいのかい――笑いながらそう言ってやると、彼は厳しい目を伏せながらはっきりと、「君にそのような度胸があるとは思えない」と告げた。その物言いはまるで何もかもを見透かしているようで、ひどく居心地が悪かったことのみを、この胸に深く刻みつけた。
 ……苦手だ、あの男は。

「そうだね、ひと通りは終わったかな」
 
 息の詰まる会談から一変、ダーリヤとの触れ合いは堅苦しさとまるで無縁である。それが彼女の持つ空気感のせいなのか、はたまたエヴィキン人という共通点のなせるものなのかはわからないが――しかし、後者がアベンチュリンの精神を強くかき乱すトリガーのひとつでもあることもまた、変えようのない事実だった。

「そうなのね! じゃあ、もうすぐお帰りになるのかしら……もしお時間があったら、少しだけ話し相手になってくださらない?」
「……まあ、別に構わないけど――」

 言うや否や、ダーリヤはまるで磨き上げられた宝石のような笑みを浮かべた。心地よく紡がれるツガンニヤの言葉はアベンチュリンの郷愁の念を刺激して、まるでこの耳をつんざくような痛みを伴う。
 花のように笑い、歌うように喋るダーリヤの一挙手一投足が、文字通り真綿で首を絞めてくる。安らぐはずなのに呼吸はどんどん詰まっていって、視界は鈍く揺れてゆく――これならバールと話していたほうがいくらかマシだったかもしれない。
 
(同じエヴィキン人だというのに、こうも違うのか……)

 笑みを絶やさぬダーリヤからは、穏やかな空気ばかりが漂ってくる。
 優しい家族、満たされた暮らし、静かな夜、平和な朝――それはアベンチュリンが今までどれだけ渇望しても手に入れられなかったものばかりで、指の動きひとつとっても彼とは似ても似つかない。
 同胞との再会を喜ぶ気持ちは嘘じゃないのに、それを上まわる後ろめたい感情がアベンチュリンの心中を占める。羨ましい。羨ましい。こんなふうに思ってはいけないのに、否定を念じれば念じるほど、その感情は強くなる。
 泥のように這い上がるそれは知らぬ間に彼を上の空にしていたようで、ダーリヤの顔がすぐ目の前まで迫ってきていることに気づいたのは、彼女がアベンチュリンの手を優しく握った頃だった。痛みを知らない生身の手のひらと、無骨で冷たい機械の感触が、同時にアベンチュリンを襲う。
 予想外の所作に思わず後ずさった彼を見るダーリヤの瞳は、青空のようにとろりと溶けていた。

「あ……あは、ごめんなさい。どうすれば気づいてくれるかしらと思って、つい――」
「まったく……! 気をつかせるにももう少しやり方ってものがあるんじゃないのかい? そんなことをしていたら、すぐに他人を誤解させてしまうよ」
「ふふ、その心配はないわ。だって、わたしとこんなふうにお話してくれるのは、あなたとお父様くらいだもの」

 使用人のみんなも、わたしには少しよそよそしくて――くるりと翻りながら語るダーリヤの瞳に、悲嘆の色は見られなかった。
 身内に貼られたエヴィキン人のレッテルは、その輝かしい瞳にはいっさい映っていないのだろうか。もしかするとそれは華奢な背中にべったりと貼りついているのみで、他人であるアベンチュリンにこそ目について仕方ないものなのかもしれない。
 否――もしくは彼女という人間が、他人の悪意にひたすら鈍感であるか。
 ……ありえない。エヴィキン人が、そんなふうに平和な世界で生きられるはずがない。
 砂に埋もれた世界で生まれ育った僕たちが、悪意の欠片もないような日々を手に入れられるわけがない――!

「……僕は、」
「え?」

 口から漏れんとしているのは、きっと紛うことなき「本音」の一片だ。
 その出どころは、もしかすると悔しさかもしれない。あるいは怒り、羨望、悲しみ、嫉妬――名前を持たない怪物のような感情が、アベンチュリンの口から溶け出して、言葉としての形を築き上げていく。
 伝えてやるべき言葉はきっと、もっと柔らかなものであるべきなのに。

「僕は、そうでもないけどね」

 
  ◇◇◇

 
 半ば呆然としながら帰路につくなか、バールからメッセージが送られていたことに気づいたのは、ちょうど跳躍を済ませた頃だった。

『君がよければだが、機会があればまたダーリヤに顔を見せに来てやってほしい』

 無機質ながらも愛情の滲むメッセージに眉を顰めながら、極力平静を保って返信する。文字を打つのもままならないのは手が震えているせいだ。
 
『構わないけど……どうして?』
『あの子が、君のことをひどく気に入ったらしいんだ。君が帰ってからずっとその話ばかりしているよ』

 刹那、先立ってに見たばかりの笑顔がひどく鮮明に蘇る。
 憎たらしいと思うのに、どうしてだか彼女の笑顔が、振る舞いが、とろけたような物言いが頭に焼きついて離れない。「唯一の生き残り」を否定できる喜びと、そうであるがゆえの醜い嫉妬心が胸を何度もかき乱す。彼女のそばにいると安らぎや安堵感を覚えるのに、それをうわまわる苛立ちが心を占め、何より初対面の人間相手にこれだけの感情を抱くおのれが、ひどく憐れでどうしようもない子どものように思える――あいつはエヴィキン人なんかじゃない、自分以外の生き残りなんているもんか、そうやって簡単に吐き捨ててしまえたらどれほど楽だっただろう。

「……僕は、あそこにいったい何をしに行ったんだ」

 賭けに負けることはない。けれど、収穫らしい収穫を得た手応えもまた、この手のひらにはいっさい残っていない――
 自分はあの場で何を手に入れたのだろうか。「命」というチップを投げて、その末に帰ってきたものはいったい何なのだろう。
 全身を襲う倦怠感をまどろみへと変えながら、アベンチュリンはそっと目を閉じる。この出会いが吉と出るか凶と出るかに、握りしめた手のひらを再び震わせながら。

 
2024/05/16