短編(セキ)

はじめて触れたもの

 セキに手を引かれながら帰路につき、とりわけ軽い足取りで集落へと帰ってきた。 こんなにもおだやかな気持ちで帰ってこれる日なんてなかなかない――そんなことを考えながら、隣を歩くセキの横顔を何度も見上げた。いつもどおり自信に満ち溢れた彼の表情だ…

おおきくなったね

 結局、あれからあたしたちが祝言をあげることはなかった。別に関係が解消になったとかそういうわけではなく、戸惑いつづけるあたしに対してセキさんが「待つ」という選択をしてくれた、ただそれだけのことだ。 せっかちな性格のセキさんから出た「待つ」と…

充満する匂い

※ちょっとだけ背後注意 ---   おう、。ちっと疲れちまったからよ、そろそろ部屋で休まねえか? その誘い文句に導かれて、あたしはセキさんと二人、私室でひと息ついている。べつに何かがあったわけではなく、ただ二人で過ごす時間がほしかっただけだ…

名前を呼んで

 優しくおだやかなあの声で、名前を呼ばれるのが好きだった。 元々のあたしは、どうやら自分の名前が好きではないらしかった。記憶喪失ゆえに何の理由があってそうなったのかはいっさいわからないけれど、でも、おのれの名前に――今となってはほぼ唯一なく…

雨の音色はきみの足音

「なあ、セキ。あんた、あの子がこの集落にやってきた日のこと覚えてるかい?」 それは、時分によるそぞろ雨が、相も変わらずしとしとと降り注いでいた夕暮れのこと。 話しかけてきたのはヨネだった。彼女は相棒のゴンベをわしわしと撫でながら、窓の外にあ…

抱かないで、どうか

 あたしとセキさんのあいだには、頭ひとつじゃ足りないくらいの見事な身長差がある。ツバキさんと一緒にいるせいで相対的に小さく見えがちだけれど、セキさんだってとても背が高い。コンゴウ団のみならず、コトブキムラの人と比べても、ひときわ高くてたくま…

ぬくもりと朝

 ぎゅう、と強く抱きしめられて、思わず身じろいでしまった。かろうじて自由な足で布団を軽く蹴ってみるが、しかし、特に何も起こらない。 目の前にあるセキさんの顔はまどろみの最中にいるようで、普段きりりとしている目元も、やけにゆるいふうなまま、静…

そんな目で見ないで

※ヒスイの夜明けネタバレ注意 --- 「おう、! 今からオレと『でえと』とやらに行こうぜ!」 けたたましい音を立てて開いた戸の向こう、それに負けないくらいの声をあげたのはセキだった。彼はやけに張り切った様子でにっかりと笑いながら、を「でえと…

雨とあの子と

※「ヒスイの夜明け」ネタバレ注意---「雨っていうのは、変化の象徴かもしれないよね」 吹きすさぶ雨のなか、鈍色の空を見上げながらヨネが言う。 何かを思い出しているのだろうか、その瞳はうねるような雲ではなく、まるでここではない何処かを見つめて…