おおきくなったね

 結局、あれからあたしたちが祝言をあげることはなかった。別に関係が解消になったとかそういうわけではなく、戸惑いつづけるあたしに対してセキさんが「待つ」という選択をしてくれた、ただそれだけのことだ。
 せっかちな性格のセキさんから出た「待つ」という答えは、時間を大切にする彼のことを思えばむしろ罪悪感を抱かせるほどのものであるけれど、それ以上に彼からひどく愛されているという実感をもたらすものでもあった。
 そう――たとえ祝言が先延ばしになったとしても、あたしたちの関係が進展したのは紛れもない事実である。ゆえに、どうせいつか一緒になるんだからと予行演習も兼ねてセキさんの家で生活するようになったのが、つい二週間ほど前のことだ。
 セキさんの家に移り住むにあたって、あたしの背中を押してくれたのは他でもないヨネさんだったけれど――その日、彼女の目にうっすらと涙の膜が張っていたのを見逃すようなことはなかった。門出の前日は久しぶりにヨネさんと一緒に寝て、寝落ちるまで色々なお話をした。
 ――辛くなったらいつでも帰ってくるんだよ。セキは悪いやつじゃあないけど、ちっとばかしガサツなところがあるからね。色男だなんだと言って、たまに配慮の足りないところがあるから――
 あたしが寝落ちる直前に聞いたのは、ひどく頼もしくてほんの少しだけ淋しげな、ヨネさんの優しい声だった。

 そうして、良くも悪くも目まぐるしく変化する日常に飲まれていたせいで、あたしはきっといつもより余裕がなくなっていたのだろうと思う。
 ばたばたしていたあたしが何をやらかしたのかと言われたら、それはただひとつ、大事なヒノアラシに気を配ることができなかったということだ。なんとなく落ちつかない様子の彼を自分と同じく突然の引っ越しに戸惑っているだけなのだと思い込んで、ちゃんと話を聞いてあげることができていなかった。
 ヒノアラシはあたしにとって、ヒスイでできた初めての「お友だち」なのに――少し前にニンフィアにかかりきりになっていたこともあるし、本当ならばもっとヒノアラシのことを気にかけて、彼に寄り添ってやるべきだった。 
 あたしたちの関係に転機が訪れたのは、新生活でてんやわんやの日々を送っていた、とある爽やかな朝のことだ。
 その日の朝、あたしはいつものように隣で寝ているであろう小さなぬくもりを手繰り寄せようとして、夢うつつながらごそごそと手を動かしていた。しかしいくら布団の海をかいてもそれにたどり着くことはなく、その違和感によってあたしの意識は少しずつ覚醒へと近づいていく。

(あれ……? ヒノアラシ、いない……?)

 いつもならお布団のなかにいるはずのぬくもりが、今日だけは感じられなかった。ほのおタイプの体温はとても心地が良くて、特に冬場なんかは彼のことが手放せない。お布団を心地よくあたためてくれる彼を抱きしめて眠ると、たとえどんなに悲しいことがあってもそれはそれはよく眠れるのだ。つらくて苦しい夜を今まで無事に超えられたのは、きっと彼という存在が寄り添っていてくれたおかげだろう。
 しかし、今日ばかりは彼のぬくもりの残滓すらいっさい感じられなくて、あたしは背筋にぞわりと怖気が走る。途端、ヒノアラシがいなくなってしまったらどうしようなんて不安が胸に湧き上がり、悪寒とともに急いでお布団から体を起こして周囲を見まわすと、そこにはあたしが飛び起きたせいで目を覚ましたらしいニンフィアと、ヒノアラシと思しき塊があったのだが――

「あっ……あれ、ヒノアラシ……!?」

 あたしの寝ぼけ眼に映ったのは、ヒノアラシとは比べ物にならないくらい大きな……というか、細長いとすら言い表せる体躯。おだやかな糸目はあたしの気配を察知してぱっくりと開かれており、そこにはきらきらときらめきながらも、ひどく凛々しい双眸があった。
 この子が紛うことなきヒノアラシであることは直感的にわかるが、しかし、決して今までどおりの「ヒノアラシ」ではない。きっとニンフィアがそうなったときと同じで、あたしの知らぬ間に進化してしまったのだろう……おそらくは、昨夜の寝ている間に。
 進化型についての話は以前テルくんに聞いたことがある――確か、ヒノアラシは「マグマラシ」というポケモンに進化するはずだ。ヒノアラシがマグマラシのみならずもう一段階進化を残しているんだということも、そのときに優しく教えてもらった。
 もっとも、あたしの喉は反射的に「ヒノアラシ」という馴染みある五文字を発してしまったが……聞き慣れているであろう呼び声を聞いたヒノアラシは――否、進化したてのマグマラシは以前と変わらぬ愛らしい仕草で体を起こし、今まで見たこともない顔でにっこりと笑って、あたしの体に飛びついてきた。ずっしりとした重量感に一瞬体が傾ぐものの、彼の笑顔を見てしまえばそんな重みすぐに感じなくなってしまう。

「わわっ……あはは、すっごい元気! おおきくなったんだね、ひのあら――じゃなかった、マグマラシ」

 よしよしと頭を撫でてやると、マグマラシは嬉しそうに鳴いてひたすらあたしにくっついてきた。
 ヒノアラシと比べて倍近く大きくなった体は、軽く飛びついてくるだけで息が詰まるほどの衝撃を与えてくれる。おそらく彼自身もまだ力の加減がわかっておらず、ヒノアラシのときと変わらぬ調子でじゃれついてしまうのだろう。ぺかぺかの笑顔はヒノアラシのそれとよく似ていて、あたしは改めて彼が彼のままであることを実感する。
 思えば、近頃のヒノアラシは自分とニンフィアを見比べるような仕草をよく見せていたような気がする。……あれはもしかすると進化の前兆だったのだろうか? 真偽の程はわからないが、友だちの細かな変化に気を配ってやれなかったのが自分の落ち度であることに変わりはない。
 あたしがおのれの不甲斐なさにため息を吐くと、マグマラシとニンフィアが気遣わしげにあたしに体を擦りつけてくる。二匹ともあたしのことを心配してくれているのだ。本当にとても優しい子たちだと思う――この二匹とお友だちになれて、あたしは至上の幸せ者だ。
 彼らの優しさに胸をほっとあたたかくしながら、あたしはセキさんにこのことを報告しようとその場から立ち上がった――のだが。

「ひ、ひやっ――マグマラシ、待っ――!」

 いつもの調子で体をよじ登ろうとしてきたマグマラシによってバランスを崩し、盛大に転んでしまったのだった。

 
 ◇◇◇
 

「大事に至らなかったのは不幸中の幸い……だが、今回はちっとばかし、気が抜けちまってたみてえだな」
「うう……面目ない、です」

 あたしは今、大きな物音とマグマラシの悲鳴によって駆けつけてきたセキさんによって椅子に座らされ、静かに手当てを受けている。足首を捻ったり肘を打ちつけてしまったりと、小さな負傷をいくつか重ねてしまったからだ。
 ニンフィアはあたしの隣で心配そうにおろおろとしているが、今回の騒動の原因となってしまったマグマラシは部屋の隅でこちらに背を向けたまま微動だにしない。セキさんのリーフィアが何かしら声をかけてくれているようだけれど、それに対しても反応を返すことはなく、ずっと縮こまっているようだ。

「ま、マグマラシ……? 大丈夫だよ、あたしすっごく丈夫だから! マグマラシも知ってるでしょ、むかーしに大きな怪我したときだって、あたし、すぐに良くなっちゃったもん!」
「そうだな。こいつは怪我こそよくするが、毎回オレらのほうが驚かされるくらい治癒が早ぇ」
「でしょ、でしょ! ねっ、ほら、セキさんだってこう言ってくれてるんだし、本当に大丈夫だから……!」

 努めて明るい声を出してみると、マグマラシはおそるおそるこっちを振り返り、しょんぼりしながら近づいてくる。ゆっくりと大きくなるその姿を改めて見ると、その見てくれにはところどころであるが、ヒノアラシの面影がしっかりと残っていた。
 確かに最初は驚いたけれど、どんなに見た目が変わろうとこの子があたしの初めてのお友だちであることに変わりはない。姿が変わってしまうことに一抹の淋しさはあれど――ニンフィアのときは出会ったばかりだったのもあってこんなことを感じている余裕もなかったな――マグマラシはあたしにとって大切な存在だ。
 気持ちを新たにマグマラシへ手を伸ばすと、彼は少しだけ顔を明るくして、足取りもなんとなく軽くなる。糸目が解消されたこともあってかヒノアラシのときよりも感情がわかりやすく、彼の戸惑いや喜びは手に取るようにわかった。

「ほんと、なんにも心配は――あ、?」

 おずおずと寄ってきたマグマラシを、あたしはいつもどおりに抱き上げようとする。しかしヒノアラシと同じ感覚で持ち上げようとしたってそれが叶うはずもなく、あたしは肘の負傷も相まって彼の体を浮かしてやることができなかった。
 ――それどころか、「お、重い……!」という率直な感想を吐いてしまったことにより、再びマグマラシを悲しませる結果となってしまったのだ。
 結果、現れたのは声にならない声をあげながら飛び退くマグマラシと、耐えかねたと言わんばかりに吹き出すセキさんと、呆然とするニンフィアと、呆れ返ったリーフィア。そこに頭を抱えるあたしが加わって、この場は地獄絵図と化した。

「ちょっ……笑ってないで助けてよ、セキさんのバカ!」
「くくっ……いや、悪ぃな。おめえら、相変わらず仲が良いなと思ってよ」
「もう! もおー……!」

 部屋の隅で縮こまったマグマラシを見ながら、あたしはパニックに陥った脳内をなんとか働かせ、彼に向かって声をかけつづける。マグマラシにそれが届くかはわからないが、少しでも気持ちが晴れてくれればそれでいい。

「あ……あたし、たくさん鍛える! これからヨネさんやセキさんのお手伝いをもっと頑張って、たくさん筋肉つけるから! そしたらきっとまたあなたを抱っこしてあげられると思うから、ね……!」

 あたしの必死の呼びかけがマグマラシに届いたかどうかは――それこそディアルガさまのみぞ知る、といったところだろうか。

 
2024/02/12