雨の音色はきみの足音

「なあ、セキ。あんた、あの子がこの集落にやってきた日のこと覚えてるかい?」

 それは、時分によるそぞろ雨が、相も変わらずしとしとと降り注いでいた夕暮れのこと。
 話しかけてきたのはヨネだった。彼女は相棒のゴンベをわしわしと撫でながら、窓の外にある雨空に目を向けて目を細めている。その語り口はいつもどおり蓮っ葉なようでいて、なんとなく慈愛のようなものが滲み出ているように思う。

「んなもん、忘れられるわけねえだろう? 色んな意味で衝撃的な日だったからな」
「あはは、そりゃそうか。まあ、忘れたなんて言ったらハッ倒してたとこだけど……じつはさ、明日であれからちょうど一年なんだよね」

 ヨネが懐から取り出したのは去年の暦であった。得意げにそれをひらくヨネにつられて目をやると、ちょうど去年の明日、六月十二日のところにしっかりと赤色で丸がついている。
 いわく、ヨネにとってあの日は新しい家族が増えた日であるから、決して忘れないよう、暦にしっかりと印をつけておいたらしいのだ。豪胆なようでマメなところは、彼女の大きな長所だった。

「でもあの子、一年経っても記憶らしい記憶を取り戻しちゃいないだろう? だから、この日をあの子の誕生日にしてやってもいいんじゃないかって思ってさ。あの子なりにしっかり生き抜いてきたんだ、祝ってやってもバチは当たらないだろ」

 慈しむように目を伏せるヨネの言葉を聞きながら、セキはあの子が――ヨヒラがやってきた頃のことを、ゆったりと思い出していた。
 あの頃は何もかもが非日常で、目まぐるしくて。激動と言っても過言ではない毎日を送っていたように思う。それこそ、団内で不穏な空気が流れたり、ヨヒラが大怪我を負って、生死の境をさまよったり――文字どおり息つく暇もないくらいの日々だったけれど、終わってみればいい思い出だし、ある意味では満ち足りていたとすら思える。
 なぜなら今のセキには、あの頃のすえに手に入れたえもいわれぬ彩りに満ちた今日がある。以前より何倍も、いってしまえば何十倍も、毎日に満足しているのだ。
 その理由が何なのかと言われたら――それはもちろん、ヨヒラが今もそこにいる、ということにある。
 彼女が自分のとなりで、気を許して、精いっぱいに歩いていること。あの幼くも小さな体に数多の業を背負いながらも、必死でもがくように生き続けていること。そして、そんな日々のとなりに、自分を置いてくれていること。
 それこそがセキにとっての希望で、見てみたかった未来のかけらで、何物にも代えがたい幸せのかたちであった。
 セキは染み入るような思案に耽りながら、ヨネの提案におおきくうなずく。

「そいつぁ名案ってもんだぜ。ならよ、久々に三人でコトブキムラに行くか?」
「さっすがセキ。あたしもそう思ってたんだよね、イモヅル亭で腹いっぱい食べさせてやりたいし、何か贈り物も買ってやろうか」

 であるなら、この天気だけが気がかりだけど――
 ヨネの言葉に呼応するごとく、二人は再び窓の外に目を向けた。

 二人の胸のうちは今、きっと同じ想いで溢れているのだろう。
 おめでとうと伝えたら、あの子はいったいどんな顔をするだろうか。どんなふうに喜んで、どんなふうに笑って。梅雨の晴れ間のような、眩しいのにどこか淋しいあの笑顔を、明日も見せてくれるだろうか。
 なんとなく胸が浮く気持ちになりながら、セキは居ても立ってもいられずに、ついその場を立ち上がった。彼のおもむろな動きにリーフィアも釣られて歩き出し、同じように空を見上げる。外は相変わらずの雨模様だが、勢いは少しずつ弱まり、じきに青い空が顔を出すように思う。

「……きっと、明日は晴れるだろうぜ。なんとなくそんな予感がするんだ」
「おや、奇遇だね。じつはあたしもなんだよ」

 姉弟二人と二匹そろって空を眺めながら、それぞれに雨と、空と、その向こうにある存在のことを想い、思いふける夕暮れのひと時であった。
 願わくば、この晴れ間のさきにヨヒラの笑顔がありますようにと――そんなことばかり思いながら。

 
夢主お誕生日おめでとうのお話でした。
2022/06/12