ここにあじさいが咲いている

 ――ずいぶん伸びたな。見違えるようじゃあねえか。
 鏡の前で朝支度をしていると、どこかしみじみしたような声が、背後からそっと投げかけられる。寝起き特有のかさついた声はここ数ヶ月でようやっと馴染んできたものだけれど、慣れたようなつもりでいても、やはりどことなく落ち着かない。
 扉に肩を預けているセキさんは未だほんのり夢心地なようで、くあ、とおおきなあくびをひとつ落とした。

「それって……髪の毛の話? それとも身長?」
「両方っちゃ両方だが――今回はこっちの話だな」

 言いながら、セキさんはのろのろとした足取りでこちらへと近づき、まだ包帯を巻いていない指であたしの髪の毛を一房すくった。
 うなじのあたりをくすぐられたせいでほんの一瞬居心地が悪くなったが、あたしが大袈裟に肩を揺らすたびに彼はくつくつと喉奥で笑い、ひどくおだやかな笑みを鏡越しに見せつけてくる。

「ヨヒラ、そのまま動かないでくれよ」

 途端、ほんの数拍前まで確かに存在していた寝ぼけ眼を、セキさんはどこかへと放り捨ててしまった。とろとろだったはずの彼はすぐに真剣な面持ちへと様変わりし、その無骨な指をあたしの髪に滑り込ませる。
 彼に髪の毛をいじられると、ヒスイにやってきて間もない頃のことを思い出す。あたしがサイホーンの群れに襲われて、生死の境をさまよったあとのこと――コンゴウ団の一員として迎え入れてもらい、特注の装束を贈られた、あの特別な日のことだ。
 当時と比べればさすがのあたしもそれなりに背が伸びたし、件の装束もだいぶちんちくりんになってしまった。最近はどうにか誤魔化しながら着ているのが現状で、そろそろ裾を直すべきか、でも下手に手を入れるのも嫌だし、かと言って新しく用意するのも……とかなんとか、そんなことばかりを考えている。
 悩むばかりで動かないのはコンゴウ団にあるまじき愚行であるのだろうけれど、正直なところ、あたしは別に信心深い性質でもないし、知ったこっちゃないというのが本音だ。団の式典に参加してもその考えは結局変わっていない――もちろん、セキさんはそれを踏まえたうえで、あたしを受け入れてくれたのだと思うけれど。
 とはいえ、ぐずぐずしてばかりで二の足を踏むのはそもそも人間としてよろしくないことだ。そろそろ決断すべきなんだろうな、早くどうにかしなくちゃ、なんとか手遅れになる前に。この装束を身にまとうたび、あたしはひどく間近でみみっちい現実を、ぐっさりと突きつけられているのであった。

「ほら、できたぜ」

 ぐだぐだと思案をめぐらせている間に、セキさんの用事はすっかり終わってしまったようだ。仕上げとばかりに髪を梳く指が、荒っぽいはずなのにひどく気持ちがいい。
 鏡越しのセキさんから自分のほうに視線を移すと、予想よりも丁寧に髪の毛が整えられているのがわかった。セキさんとおそろいのようでもあるハーフアップは、むしろあたしが自分でやるよりきれいに整っているかもしれない――ちょうどセキさんに髪飾りをもらったときのことを思い出していたからか、数年前からの成長っぷりに思わず声をあげてしまった。
 ぼうっと見とれている間に、一緒に毛づくろいをしていたバクフーンがそっと手鏡を持ってきてくれた。気配り上手な彼のおかげで、あたしは後頭部に鎮座する新しい髪飾りを目に入れることができたのである。
 ……あじさいが咲いている。造りは以前もらったものとほとんど同じようだけれど、もう少し大振りで、立派な花。そこに連なる葉っぱがあたしが身じろぎするたび揺れて、窓から射し込む朝陽を美しく反射している。――とても、きれいだった。
 あたしがまばたきを繰り返しながらセキさんを振り返ると、その反応に気を良くしたのか、彼はどこか得意げに口を開いた。

「今日がなんの日か、覚えてるか?」
「え……えーっと、」
「おっと、わかんねえか。今日はおめえの誕生日だろうよ」
「えっ……あ!」

 向かいの壁に貼られたカレンダーを視界に入れた途端、すべてのことに合点がいった。
 昨夜、寝る前のセキさんが妙にそわそわしていたこと。やけに枕元を気にしていたこと、ここしばらくヒナツちゃんのところに足繁く通っていたこと……その他にも、方々に広がっていた点と点が一気に線として繋がって、やがてあたしの胸の奥をじんわりとあたたかくさせる。
 ……愛されていると、思ってしまった。セキさんの持つ海のような愛情が指先から全身に広がって、すぐに胸が苦しくなる。やがてゆっくりと視界が滲んで、頭の奥がぼうっとして……そうして、とうとうあたしは彼の顔を見ることができず、うつむくばかりになってしまった。
 
「今日は、オレたちが一緒んなって初めての誕生日だろ? だから、ちったあ特別なことがしたくなってよ」
「うん……」
「以前おめえに贈った髪飾り――あれを作ってくれた職人を死に物狂いで探してな。運良くコトブキムラに留まってくれてたから、そいつに新しいのを仕立ててもらったのよ。前のやつはずいぶんとボロくなっちまってたからな」

 セキさんは、愛おしさを滲ませた腕であたしのことを抱きしめてくる。目の端に映るバクフーンは微笑ましそうに肩をすくめたのち、静かに部屋を出て行った。おそらく、ニンフィアたちに声をかけにいったのだろう。

「セキさん、」
「うん?」
「ぁ……りがと、ございます」
「おう!」

 うつむいたままなんとか感謝を絞り出すと、あたしを抱きしめるセキさんの腕に、ひときわの力が込められる。
 さっきまで廊下からポケモンたちの話し声がしていたはずなのに、彼らの気配は知らぬ間におしなべて感じられなくなっていた。賢くて優秀なみんなは、今日という日にあたしたち二人だけの時間をひねり出してくれたのだろう。
 みんなの気持ちが嬉しくて、もう耐えられそうになかった。

「あともう少しだけ、独り占めさせてくれよな」

 耳元から滑り込む彼の言葉に応えるごとく、あたしはそっと、体の力を抜いたのだった。

 
夢主のお誕生日でした。おめでとう
2024/06/12