誰よりも殺したい影

「こんにちは、お嬢ちゃん。また会ったね」

 その人は、今日も今日とて飽きることなくわたしに話しかけてきた。

 先日知り合ったばかりの「公子」タルタリヤは――タルタリヤさんは、何かにつけてわたしに関わってくるようになった。道端ですれ違ったときはもちろん、ごはんを食べているときに出くわしたら近くの席に座って話しかけてくる。チンピラに絡まれていたときには間に入ってくれて、ガラの悪いやつらをさっさと追い払ってくれた。
 昨夜なんかは泊まっている旅館のロビーに何食わぬ顔で座っていて、正直お化けでも見たのかってくらいに驚いた。たまたま出くわすのならまだしも、どうしてこんなところに……? さすがのわたしも疑問を抑えることができず、それとなく理由を訊ねてしまった。結局彼から返ってきたのは「仕事でたまたま来ただけだよ」という答えのみだったが、ほんの少し乱れた髪と落ちつかない様子のデットエージェントを見るに、もしかすると本当にそうだったのかもしれない。
 ――お仕事を、してきたんだ。わたしの見ているタルタリヤさんがやけに明るい人なせいで、そうした裏の顔を匂わせる空気感に、ほんの少しだけ背筋が冷えた。
 この人が笑えば笑うほど、わたしはこの人がファデュイであることをすっかり忘れてしまう気がする。この人は本当は怖い人で、何人もの人間を打ち倒してきた悪人なのだという事実を、改めて突きつけられたような気分だ――そんなことをぐるぐると考えていたおかげで、昨夜はあまり眠れなかった。
 寝不足の体には璃月港の陽射しがよくしみる。何をするでもなく周囲をうろつくなか、体力の限界を感じはじめたわたしがベンチに座り込んだおりに、タルタリヤさんがやってきたのだ。
 ……正直なところ、体が弱っているときに会いたいと思う人ではなかった。なぜならこの人はひどく無遠慮にわたしの視界に入り込んできて、その身にまとうおぞましい色をこれでもかと見せつけてくるからだ。
 それでも、わたしはこの人を撥ねつける術を持たない。そんなことをしても何にもならないと、きっと本能的に理解をしてしまっているのだろう。
 わたしの目の前で輝くぺかぺかとした笑顔は、故郷で親しくしていた友人をなんとなく想起させる。……あまり、好きだと思えるものではない。

「そういえばさ、聞いてくれよ。昨夜話しそびれちゃったんだけど、実は昨日ちょっと面白いことがあってね――」

 タルタリヤさんは、いつ見てもなんとなく楽しそうだ。どこか恐ろしげな雰囲気を漂わせているくせに、その笑顔はまるでワンちゃんのように人懐っこくて、可愛らしさすら感じさせる。「執行官」という立場さえ知らなければきっとみんな彼のことが大好きになるだろうし、すぐに全員と友だちになってしまえそうだ。
 そんな人だからこそ、どこから来たかもわからないわたしのような人間にも、こうして好意的に接してくれるのだろうと思う。彼の話すことは時おり不穏で聞くに耐えないこともあるが、それを除けばとても興味深く、わたしの知らないこの世界のことを教えてくれる――わたしは彼の話を聞く傍らで、この璃月を出たあとのことを考えることが増えていた。
 
「――ってなわけなんだけど……ちょっと、俺の話聞いてる?」
「えっ!? あ……う、すみません。ちょっと、他のこと考えてました……」
「アハハ、素直でよろしい。……いいね、そういう素直なところを見てると、うちのテウセルを思い出すよ」

 テウセル――いつも楽しげに笑っているタルタリヤさんは、その名前を呼んだ途端、真っ青な瞳をひどく優しげに細めた。
 大切な人、なのだろうか。わたしにはその名前が誰のものなのか……そもそも男なのか女なのかすらもわからないけれど、とにかくその名を口にするタルタリヤさんは、いつにも増して楽しそうだった。
 それだけで、「テウセル」という人間が彼にとって大切な存在であることが簡単に見て取れる。そして、そんな人に対しての疑問を他人のわたしが口にしても、この人はきっととても優しく、嫌な顔ひとつせずに話してくれるのだろう。そんなふうな確信を、よもやこの短い付き合いのなかで抱いてしまうことになるとは。
 わたしが「テウセル」という名前をオウム返しすると、タルタリヤさんは何かに気づいたように目を見開いて、再び笑みを濃くした。

「かわいいかわいい弟だよ。俺は実家が大家族でね、テウセルは一番下の弟」
「じゃあ……もしかして、タルタリヤさんはお兄ちゃんなんですか?」
「そうだよ。ま、上にも何人かいるんだけど……」

 タルタリヤさんは、とても楽しそうに家族のことを話してくれた。幼い頃にお父さんと氷上釣りに行った日のこと、トーニャちゃんにお料理を教えたこと、テウセルくんは独眼坊というキャラクターが大好きなこと――彼の口から紡がれる話はそのどれもがとてもあたたかく賑やかで、彼が家族を愛し、そして強く愛されていることを、言葉以上に伝えてきた。
 わたし自身、この感覚には覚えがある。

(この人……見てると、なんだか――)
 
 途端、わたしは気分が重くなった。故郷のことを……家族が皆健在だった頃の、しあわせな日々を思い出してしまったからだ。
 結局のところ、わたしは家族が大好きだった。家族だけじゃない、故郷のことも、あの家も、あの人のこともおしなべて、本当に大切なものだらけだった。自分を取り巻くすべてのものが大好きで、何よりも大切で仕方なかったからこそ、もう二度とあの町にはいられないと判断して、この璃月にやってきたのだ。家族を愛し、彼らとの記憶、彼らへの哀悼に囚われている「わたし」を殺してしまいたくて、こんなにも刹那的で馬鹿げた日々を送っているのである。
 他人を疑いながらこの身を切り売りする暮らしなんて、そんなものは誰も望んでいなかったはずなのに。……否、そうであるからこそ、この行動には意味がある。わたしはこうしてゆっくりと、「わたし」のことを殺しているのだから。
 家族の遺してくれたモラは日が昇るたびに減っていき、きっとそう遠くないうちに底をついてしまうだろう。そうなったとき、果たしてわたしはどんなふうに……本当に、生きていこうと思えるのかな。
 わたしがもう少ししっかりした人間だったら、こんなふうに先の見えない生き方なんてしなかっただろうに。たとえば……そう、お父さんの下についてたくさんのことを学んでいた、あの頃のお兄ちゃんみたいに。
 ――お兄ちゃん。口をついて出てしまったわたしのちいさな呟きを、タルタリヤさんは聞き逃してくれなかったようだ。

「……もしかして、君にもお兄さんがいるの?」
「ん……はい。優しくて、真面目で……すっごく勉強熱心なお兄ちゃんでした。ちょっと前に死んじゃったんですけどね」

 できるだけ、いらぬ気をまわさせぬように。わたしが肩を竦めながら言うと、タルタリヤさんは深海の瞳をこれ以上ないくらいに見開いて、言葉を探しているように見えた。
 ……当たり前だ。家族を大切にしている人がこんな話を聞かされて、笑っていられるはずがない。
 彼の気遣いと空気感がいたたまれなくて、わたしは弾かれるようにその場から立ち上がる。軽い眩暈で足元はふらついたが、そんなことを気にしている余裕なんかなかった。
 出し抜けに動き出したわたしにも、タルタリヤさんは特に動じてはいないようだったが……「執行官」ともなると、他人の不意な行動に驚くような細い神経など持ち合わせていないのかもしれない。
 ……そうだ、この人は「執行官」だ。ファデュイという組織の偉い人で、こんなふうに気安く話していいような相手じゃない――
 
「え、えへへ……ごめんなさい、変な話しちゃって。わたし、ちょっと用事を思い出したので失礼しますね」
「あ、ちょっと待って――」

 彼の返事を聞くのが怖くて、わたしは振り返らずに思い切りその場から駆け出した。璃月の潮風を全身に浴びながら走る道中は、なんだかひどく胸にしみて、すぐに世界が滲んでゆく。
 勘違い、しそうになってしまった。彼のまとう「兄」の空気に、この身を委ねてしまいそうになった。顔と名前と、ほんの少しのプライベートしか知らないような相手に、果たしてここまで感情を揺さぶられるようなことがあっていいのだろうか?
 ――情けない。せっかく故郷を出てきたのに。灯火に頼る日々をやめたくて、慣れない道を歩いてきたのに。
 どうしてわたしはこんなにも――これほどまでも、誰かに依存して、何かを柱にすることでしか生きていくことができないのだろう。
 そうした弱い「わたし」こそ、わたしの殺したい影そのものでしかないのに。

 
2024/06/19