璃月には「清心」という花がある。
断崖絶壁にしか咲かない、透き通る白い花。温もりよりも高所の冷たさを選ぶこの花の生態は、その見てくれも相まってセシリアの花をどことなく彷彿とさせる。
そして、璃月にはその清心を材料にした「清心の花パイ」というお菓子がある。朝露を含んだ花びらで餡を作り、何層も重ねた生地で丁寧に焼き上げたそれ。出来たてが一番おいしいと聞いたディルックが材料とレシピを取り寄せるまで、そう時間はかからなかった。
「おいしいか?」
清心の花パイを前に目を輝かせるハーネイアを、ディルックはうんと目を細めながら見守っている。ちいさな口は清心の花パイを大胆に頬張り、頬についたパイの欠片すら愛らしく感じさせるほどだ。むぐむぐと丁寧に咀嚼して嚥下したあと、ハーネイアは大きな笑顔の花を咲かせた。
「はい! とっても……!」花々の香りがするお菓子を食していることもあってか、ディルックには今の彼女が可憐な花のように見える。これを誰かに言うと毎度のように微妙な目を向けられるので、最近はとんと口に出さなくなってしまったが。
「清心の花パイって、名前を聞いたことはあったんですけど食べる機会に恵まれなくて……だからわたし、今すっごく幸せです!」
これだけ幸せそうなハーネイアを見ていると、自分の分も彼女に食べさせてやりたくなってしまう。
本人は遠慮してしまうかもしれないが、試しにおのれの皿を差し出してみる。頬を懸命に動かしていたハーネイアはディルックとパイの両方を交互に見るものの、やはりどことなく気まずそうな顔をした。
「……いらないか?」そう言おうとしたときだ。ハーネイアは視線を泳がせながら控えめにパイを飲み込んで、遠慮がちにくちびるを動かす。
「い……いいんですか? いただいても……」
刹那、数年前の出来事が脳裏をよぎる。
あれは初めてハーネイアと会った日のこと。この子はおいしそうなリンゴにつられて母親の元を離れ、路地裏でひとり迷子になっていた。そこをディルックが助けたのだ。
出会いがこうであるがゆえか、ディルックはハーネイアのことを食いしんぼうの女の子だと思っている。だからこそ、こうして定期的においしいものを食べさせてやりたくなるのだ。
……変わらないものだな。ちいさく吹き出したディルックを前に、ハーネイアはくるくると表情を変える。羞恥に染まったすがたは少しいじわるしてやりたくなったが、今はそれよりも彼女への愛おしさが勝ってしまった。
「あの頃からちっとも変わらないな、君は」
ディルックは、彼女の普遍的なところをこそ愛している。
そこに見られるのは在りし日の残り香で、彼女の存在そのものが「平和だった日々の象徴」に他ならないからだ。
#novelmber 29.残り香
2025/11/06
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます