帰宅直後のフブキを襲ったのは違和感だった。
否、違和感と言えど決して不快なものではなく、むしろ彼にとっては利と数えられるものである。それを「利」だと判断することに、多少の罪悪感はあるが。
(これは……もしかして、ヒルダさんの香水瓶?)
半獣神であるフブキは、人よりも聴覚と嗅覚が敏感である。それらは役に立つ場面も多いものの、時には彼を苦しめる要因にもなる。
ヒルダはこの体質について、ひどく気を遣ってくれていた。薬を調合するときも風下に立つよう意識していたし、深く付き合うようになってからは愛用の香水を使うこともなくなった。数少ない趣味を奪ったのではないかと心苦しく思うときもあったが、「香水は香りだけじゃなく、目で楽しむこともできるもの」と、鏡台の上に並べた香水瓶を見せてくれたことがある。彼女いわくそれは「いんてりあ」にもなるらしく、几帳面に並べられた色とりどりの小瓶たちは、ヒルダが冬の社に移り住んでも変わらずそこにあった。
しかし、いくら密閉されていてもやはり多少の香りは漏れるものである。フブキの嗅覚はその微細な香りすらも敏感に感じ取り、時にはくしゃみを引き起こしていたのだが、今日の香水瓶からは何も感じられない。ほぼほぼ無臭と言っていいそれをフブキが見つめていると、彼の帰宅に気づいたらしいヒルダが奥から姿を現した。
「あらフブキ、おかえりなさい」
「ヒルダさん……! はい、ただいま帰りました。あの、この香水瓶は――」
「ああ……やっぱりわかるのね。そろそろ使用期限も近かったから、中身を捨てて、代わりの色水を作ったのよ」
そういえば、少し前から家庭菜園のとなりに花壇ができていたっけ――記憶を辿りながら、フブキは香水瓶のひとつを手にとって照明にかざす、ヒルダの手の動きを追った。
灯りを通した水色は少しあたたかみを増した色になり、そのささやかながら確かな変化はフブキの尻尾をぶんぶんと揺らした。彼の尻尾が視界に入ったのか、ヒルダは口元を緩めて「気に入ってもらえたかしら?」と訊ねてくる。
「はい……! まるで宝石みたいで、どれもとても綺麗です」
「そうでしょう。定期的に中身を変えれば腐る心配もないし、気分転換にもなるものね」
今度は春の里の花で作ろうかしらね――香水瓶を眺めながらつぶやくヒルダの背中にひっつき、フブキは彼女の香りを味わう。柔らかいそれはフブキの大好きな匂いで、職務の疲れもあってかすぐに眠気を誘発した。
ぼんやりとした頭で考えるのは、溢れそうになる彼女への気持ち。そして、誰かのために趣味のひとつをたやすく捨ててしまえる、その危うさについてだった。
2025/09/24
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