クサツ旅館のお風呂はマウロも日常的に利用している。爽やかで解放感のある露天風呂は彼の心を射止めてやまず、鳥の鳴き声から空の雲の動きまで、毎日新たな発見のあるこの場所を彼はひどく気に入っていた。
しかし、この旅館はどうしてこんな名前なのだろう? 脱衣所前で首を傾げていると、女湯のほうがにわかに騒がしくなる。聞き覚えのある声にマウロの耳はぴくりと跳ね、思わず視線が吸い寄せられる――もちろん、紳士たるもの中を覗こうだなんて思ってはいないが。
「あれ、マウロやん。あんたもお風呂入ってたんか」
暖簾の向こうから出てきたあめに、マウロの心臓は大きく脈打つ。まるで求愛でもするかのようなそれに苦笑いをこぼしていると、あめが一瞬怪訝そうに眉を寄せたのが見えたが、今の彼女はそんな些事など気にも留めないほどご機嫌なようだ。共に露天風呂を堪能していたらしいマツリに別れを告げ、こちらに近寄ってくる。
「ああ……テゾーロは、マツーリと一緒に?」
「そ〜。外でちょっと話し込んでしもてさ、お互い汗かいたからひとっ風呂浴びるかって話になってな」
マウロの腰かける長椅子に、あめもゆっくりと腰を下ろす。ふわりと香るのはこの旅館の石鹸だろうか、爽やかなそれは彼女によく似合っていると思われた。
しかし、マウロの心は彼女のうなじに釘づけとなっている。否、別に湯上がりの艶っぽい姿に心を乱されているわけじゃない。もちろんそれも素敵だが、今の問題は彼女が髪をまとめていることなのだ――
梅雨を司る神ということもあり、あめの見てくれには梅雨の花・紫陽花を彷彿とさせる要素が散りばめられている。たとえば紫陽花の色を映したような長い髪、萼の形をした瞳など、あめの姿を見れば皆紫陽花を思い出すだろう。あめのそういったところをマウロはひどく愛しているし、うつくしいと思っている。
ただ、そうであるがゆえに不便なことも多々あった。その髪は日常生活を送るには似つかわしくないほど長く、それこそ恋人としての営みに励むとき、布団に散らばる彼女の髪を傷つけないよう、細心の注意をはらう必要がある。そして、マウロの負担を減らすためにあめはいつからか髪をまとめるようになり、気づけば彼女が髪をまとめること自体が、ある種のお誘いのようになっていたのだが――
(こんなところで夜のお誘いなんかされるわけがないのにね。……まったく、オレもまだまだ修行が足りないらしい)
不意に目に入った恋人のまとめ髪は、風呂上がりのマウロの体に新たな熱をもたらした。周りにさとられないよう深呼吸を繰り返し、ピーチネクターを飲みながらほっとひと息ついているあめの手をとる。
「ねえ、テゾーロ?」
「おん?」
「このあと予定がなかったらさ……オレと、一緒に帰らない?」
時刻は夕暮れ、空が少しずつ茜色に染まってくる頃だ。少しかすれたマウロの声に「何か」を察したのか、あめもまた湯上がりだけが理由ではないくらいに頬を染め上げ、マウロの手のひらのなかにある指先を、ほんの少しだけ暴れさせる。
「え、ええけど……」蚊の鳴くような返事は、人々の雑音にかき消されることなく、マウロの耳へとまっすぐ届く。彼の手のひらがまるで獲物をとらえるかのように強く握られたのは、それから二秒後のことだった。
2025/09/20
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます