塗抹詩書

 今日は祝日、居酒屋ヤチヨの定休日だ。秋の里に移り住んでから居酒屋ヤチヨで働かせてもらっているヒルダも、週に一度のお休みを満喫していた。午前中は家でのんびりしてリフレッシュしたので、午後からは秋の里の散策に精を出している。
 この里に住み始めてからまだそれほど経っていないし、土地勘を得るのは大切なことである。宛もなくぶらぶらと歩き、今は高台にある境内で、いくつも立ち並んでいる灯篭飾りを眺めていた。
 秋の里の風は気持ちがいい。湿気が少なく穏やかで、この秋風からもクラマの祝福を感じられる。食べ物もおいしいし人も優しくて、今までの切り詰めた生活が嘘のように、時間の流れもゆっくりだった。
 そうして、ぼんやりと秋の里の自然を堪能していたときだ。青天の霹靂――と言うには可愛らしい、ちょっとしたアクシデントが起こったのは。

「わあッ! どーだヒルダさん、驚いたか――……!?」

 
  ◇◇◇
 

「ご、ごめん、ヒルダさん……! おれ、こんなことになると思ってなくて……」

 ヒルダは空を眺めていた。
 抜けるような青空はどこまでも広がっていて、のんびりと流れる雲を見ていると落ち着く。こうして地べたにひっくり返ったまま夕暮れになってしまいそうなくらい、アズマの空はヒルダの目を奪ってやまなかった。

「ヒルダさん、っヒルダさん……! なあ、大丈夫か……?」
「ええ、問題ないわ」

 往来で転がっていた体を起こし、服についた土を払っていると、制服の裾がほつれていることに気づく。彼の――コタロウのおかげで気がつけたので、改めてお礼を言わなくては。
 涙目でこちらを見守っているコタロウの頭に、ためらいがちに手のひらを置く。頼りなく垂れ下がった眉は年相応――タヌキも人間と同じ成長速度なのだろうか――で、ひどく愛らしく見えた。

「そんな顔しなくても大丈夫よ。転ぶことには慣れてるもの」

 怯えきったコタロウの頭を撫でながら、ヒルダは淡々と答える。
 先ほど、ヒルダはコタロウのイタズラを食らった。ぼうっとしているところに突然現れた仔ダヌキはヒルダの足元を脅かして、彼女をひっくり返らせてしまったのだ。
 ヒルダにとってつまずいたり転んだりするのはもはや日常茶飯事なのだが、知り合って間もないコタロウには刺激が強かったらしい。コタロウはひっくり返ったまま空を眺めているヒルダに怯え、はらはらと様子をうかがっていたのである。

「お、怒ってない……?」
「もちろん。こんなことで怒るほど狭量ではないわ」
「ほん、ほんとか……っよかった……!」
「そうだわ、驚かせちゃったお詫びに明日ごはんを奢ってあげる。そうね……せっかくだし、タヌキ鍋とかどうかしら――」

 キツネうどんの大好きなキツネがいるのだから、タヌキ鍋もタヌキの好きな食べ物だと思っていたのだけれど――とんでもないヒルダの誤解は、コタロウの悲鳴によって強引に解かれたのだった。

 
2025/09/10

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