べちゃん

 先日、エンジェルズシェアで不思議な話を聞いた。とある常連客が、雑談の合間に「家に猫が落ちている」などと言っていたのだ。
「落ちている」のは猫だからなのか、それともペットだからなのか、果たしてどちらなのだろう? 幼少期に亀を飼っていたことはあるが、さすがに亀は家のなかに落ちていなかった。仮に落ちていたとしたらそれはいわゆる「脱走」であり、アデリンたちが大慌てで彼を捕獲していただろう。
 猫の生態にそれほど詳しくないディルックは、無自覚に彼らの話を真に受けながら、いつもの癖でついつい耳を傾ける。こういったくだらない話から、予想外の情報を得られたりするものなのだ。

 ――うちは猫じゃないけど、たまに嫁が落ちてることがあるぜ。
 ――嫁さんが? それはまた、なんで?
 ――仕事や家事に疲れたり、なんにもできなくなったりすると、な。で、そういうときは二人でゆっくり過ごしたり、パーッと飲んだりするわけだけど……

 ――ふむ、なるほど。時には人間が落ちていることもあるらしい。くだらなさと興味深さのちょうど真ん中に心を置いて、洗い終わったグラスを磨く。
 おのれの周囲に置き換えて考えてみたものの、しかし、使用人たちはもちろんのこと、あのハーネイアが落ちているところなんて想像もつかなかった。あの子はああ見えてタフなところがあるし、未だに癒えない傷こそあれど、一時のようにボロボロになることはなくなっているように見える。それはひとえにあの子自身の努力と、使用人たちのケアの賜物なのだが。
 そうだ、そもそも自分はあの子が床に落ちるまで放っておくようなことはしない。ならば彼の妻が落ちているのは日頃のサポートが足りていないからじゃないのか――なんて思わず口を挟みそうになったが、酔っ払いに絡むと面倒くさいことこのうえないので、すんでのところで飲み込んだ。
 ……うん、やっぱり、あの子が床に落ちるなんて考えられないな――そう結論づけたのが、ちょうど先週の火曜日のことだった。
 

「ぁ、い、ったた……うう、すみません、起こしちゃって――」

 しかし、ディルックのその結論は他でもないハーネイア本人によって簡単に覆されてしまう。
 べちゃん! という無様な物音で目を覚ましたとき、ハーネイアは確かに床に落ちていた。ネグリジェ姿で転がっている彼女は、ディルックが怪訝な顔を隠せないあいだによろよろと体勢を立て直して、恥ずかしそうに顔を伏せながら、こちらに手を伸ばしてくる。

「あ、あのう……腰が抜けちゃって、立てなくて……お、起こしてもらえますか……?」

 恥じらう妻を抱きかかえて、ベッドのうえへと転がす。よっぽど恥ずかしかったのだろうか、あっという間にハーネイアはシーツのなかへと潜っていって、彼女と同じ大きさのまるい膨らみを作り上げた。

(そうか。たとえどんな人間でも、落ちてしまうことはあるんだな……)

 しみじみと考え込みながら、まんまるの膨らみを優しく撫でる。……まあ、この子が落ちくれるきっかけを作ったのは、他でもない自分なのだけれど。
 くぐもった声を聞きながら迎える朝は、いつもより強く、じんわりと、罪悪感を刺激した。

 
2025/09/06

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!