いつも背中を、いつかその手を

「オレがシアレンスに来る前の話なんだがな、それはそれは美しい花を見たことがあるんダ」

 唐突に、けれどもひどく穏やかに語り出したのはガジだった。愛おしい人のゆったりとした声に、グリシナはじっと耳をかたむける。
 郷愁にも似た色を滲ませる声はどこか淋しげであり、こちらのほうまで柔らかく胸を締めつけられる。おおきな傷跡の下に隠された彼の瞳は、今、はたしてどんな色をしているのだろう。

「生憎と名前は忘れてしまったんだが……ちょうど、今みたいな春頃のことだったかナ」

 思い出を手繰るかのような語り口。そのテンポは曖昧なのに心地よくて、ひらひらと踊るように舞うセレッソの花びらもまた、彼の言葉を殊更に彩った。

「その花の飼育方法は少しばかり特殊でナ。立派に育てるため、専用の棚をつくってツルを這わせるそうなんダ。オレも少しばかり設置を手伝ったんだゾ」
「そうなの? じゃあ、苗があればシアレンスでも育てられそうだね」
「できなくはないと思うが……そもそも、名前を忘れてしまったからなア。探すのは骨が折れそうダ」

 うーん、と頭を悩ませるガジは、眼前の景色へと目をやった。羽ばたく花の丘は相変わらずの絶景で、優しくてあまい香りと穏やかな陽射しが、まるで極楽にも似た世界を見せてくれるようだった。

「その町には数年ほど住んでいたんダ。なかなかいい町だったんだが、もう少し広い世界を見たくなって……それで、引っ越すかどうかで悩んでいた頃に、ちょうどオレが建てた棚のぶんが咲きはじめたんだヨ」

 ガジは、ゆっくりと目を閉じる。
 途端、呼吸の音すら聞こえそうなくらいの静寂があたりを包み込んで、グリシナは思わず息を止めてしまった。
 優しいのに張りつめていて、穏やかなのに緊迫している。ひどく複雑な空気が花畑を支配した。

「――文字通り言葉も出なかっタ。視界いっぱいに淡い紫が広がってな、見上げると太陽が透けてまた綺麗なんダ。……神秘的と言ってもいいくらいだっタ。あのときのオレは、一瞬で魅せられてしまったヨ」

 けれど、その静寂も彼自身の声によって簡単に破られてしまう。
 本来の温度を取り戻した世界に安堵して、グリシナの呼吸もいつものリズムに戻ってきた。こっそり数回深呼吸してから、ガジの言葉に相槌を打つ。

「結局、その花に背中を押されるようにして町を出たんだが――叶うなら、いつかグリシナにも見せてやりたいナ」
「私?」
「あア。……じつはな、オレはグリシナを見るたび、あの花を思い出すんだヨ」
「えっ――あ、わわ」

 グリシナが言葉を挟むよりも先に、ガジはやさしく彼女の手をとって、ひときわあたたかく微笑む。陽だまりに照らされた笑みはグリシナの心を思い切り揺さぶって、その頬を一瞬でセレッソの色に染めた。
 もにょ、もにょ。羞恥と喜びで唇はうまいこと動かなくなって、歯切れの悪い言葉ばかりが出てきてしまう。

「そ……そんなに綺麗なお花なのに。私なんて、もったいないよ」
「もったいなくあるもんカ。グリシナはオレの言うことを信じられないのカ?」
「そういうわけじゃあ――」
「なら素直に聞いてくレ。そもそも、その花が綺麗だったからって理由でお前を思い出してるわけではないゾ」
「え……え、ええっ!?」

 予想外のような、なんとなく安心したような。グリシナが目を見開くと、ガジは満足そうにくつくつと笑って歩き出す。
 どういうこと、なんでなの、どうして私を思い出すの! 広い背中に何度問いかけても、結局答えらしい答えは返ってこないまま。シアレンスに帰りつくまでの帰路は、ただひたすらに楽しそうな彼を追いかけるだけで終わってしまった。

 
2022/11/08