お願いするようだ!

「キミは、なかなか手慣れているようだな」

 男湯の掃除から帰ってきた直後にかけられた第一声。目線のだいぶ下から聞こえてきたそれに、俺は軽く首を傾げた。

「ちょっと見ただけでわかるもん?」
「もちろんだが。ワタシがやるより数倍はやいし、隅から隅までピカピカのようだ」
「あー……まあ、それなりに綺麗好きなもんで」
「……キミの部屋は、綺麗好きというより物がないと言ったほうが正しいぞ」

 どこか思い悩んだような顔をしたこいつは――シャオパイは、意外と俺のことをよく見ているらしい。訝しむようなそうでもないような、疑問の目を向けながら何かをねだるように俺の前に立ちふさがる。
 もしかすると、知りたいのだろうか。俺がどうしてここにいるか、なぜ風呂掃除に慣れているか。別に大したことではないので話してやっても構わないが、しかしこいつはそんなふうに他人を探るタイプではなかったような気がする。外国暮らしが長いせいか、それとも旅館という人の出入りが激しいところに住んでいるせいか、見た目や雰囲気に反して他人との距離の取り方がうまいのがシャオパイという人間だ。
 さて、ならばどうしてやろう。俺がじっくりと考え込んでいると、沈黙を破ったのは予想外にもシャオパイのほうだった。

「……教えては、くれないか」

 どくん。突然の申し出に、俺は思わず心臓を波打たせる。
 いったい何を訊かれるのだろうか。込み入ったことでなければ答えてやるつもりだが、それでもなんとなく怖いような、反面少し楽しみでもある。複雑な気持ちで俺はシャオパイの言葉を待った。
 結果、彼女の口から出てきたのは予想の斜め上をいくような一言だったのだけれど。

「ワタシに……ワタシに、風呂掃除の秘訣を教えてはもらえないだろうか!」
「……は?」

 詰め寄るように縋ってきたシャオパイは、その小さな手で俺の服を掴んでくる。袖の隙間から見える指には絆創膏がいくつも貼られていて、こいつが日頃から失敗ばかりを犯し、けれども決してめげずにやってきたことを証明していた。

「キミみたいな器用な人間に教えを乞えば、きっとワタシも負けないくらいのスーパーウーマンになれるはずだが! だから頼む、ワタシの師匠になってくれ……!」
「し、師匠って……ちょっと話がデカすぎじゃ」
「ワタシにできることなら何でもする! だから……――」

 刹那。嘆願するシャオパイの向こう側に、幼い誰かの面影がちらついた。
 その正体が誰なのかはわからない。もしかするといつかの自分自身かもしれないし、はたまたかつて旅をしていたあの女の子であったかも。
 ただひとつわかることがあるとすれば、この胸のひどく柔らかいところに巣食う記憶を、その残像が強く強く刺激してしまったということか。しがみついてくるやわっこい手を振りほどけなくなる程度には、俺の心の奥底にある何かは彼女を拒むことを良しとしない。
 襟の辺りをキツく握りしめてくるシャオパイの手に、俺の手をぽんと重ねてやる。柔らかくて小さくて、なんとなく懐かしくもある感触だ。

「……何でも」
「へ?」
「何でも、やってくれんだな。俺が頼んだこと」

 俺が低い声でそう言うと、シャオパイは一瞬何かを察したような顔をする。何を想像したのかはあとで問いつめてやるとするが、しかし手を離そうとしなかったあたり、その決意は本物のようだ。
 ビクビクと、いささか怖じつつも見上げてくるシャオパイの顔も相まって、久しぶりに血がたぎるような、「面白い」と思えるものに出会えたような心地になる。視界がふわりと開けたような、清々しい気持ちにも。

「俺の指導は厳しいぜ?」

 そう言ってやった途端、シャオパイの顔がぱあと明るくなる。期待に満ちた双眸は幼子のようでもあって、こいつ自身の持っている陽の部分に照らされたような気持ちになった。
 純真かつ懸命な彼女を騙すようなことになるかもしれないと、胸の奥がずきずきと痛むような気もするが――それはただの気の迷いだ、一時の情に流されているだけだと思うことにする。

「よろしくお願いするようだ、サンテモ師匠!」
「だから師匠はやめろって……」

 
20210413