あなたの胸を押し開く

 スマホロトムに指を滑らせて、そそくさとメッセージを打ち込む。
『もうついてるよ』既読はつかない。時計を確認してみると、待ち合わせ時間を五分ほど過ぎている。
 もしや、何かトラブルにでも巻き込まれているのだろうか? そらとぶタクシーで迎えに行くことも視野に入れて顔を上げると、ちょうど視線の先の人混みを掻き分ける待ち人のすがたが目に入った。

「おうい! ここだよ〜」

 わたしの声に反応したその人は、こちらと目があった途端、サングラス越しの瞳を爛々と輝かせた。

 
  ◇◇◇

 
 あれはたしか、みんなで集まった日から三日後のことだったかな。ホップの厚意を無下にできなかったわたしが、スマホロトムを必死に握りしめながらマサルにメッセージを送ったのは。
 本来ならすぐにでもコンタクトを取るべきだったのだろうけれど、さすがに立て続けでは向こうも対応に困るかもしれないとか、いきなり距離を詰めすぎじゃないかとか、どうでもいいことをうだうだと考えた結果、中途半端に時間が空いてしまったのである。
 何度も寝返りを打ちながら、できるだけ押しつけがましくない、自然なメッセージになるよう心がけた。『ねえ、もしよかったら今度二人で遊びに行かない?』返事はこうだ。『スケジュール確認してみるから、待ってて』淡白ながらも前向きなメッセージに人知れず高鳴ったわたしの胸は、まるで自分の感情から目を逸らしているようだった。
 わたしからの唐突な連絡を、マサルはいったいどんなふうに思っただろう。喜ぶほどじゃなくていいから、せめて嫌な気持ちになっていなければいいな。迷惑じゃないと、嬉しいな――そんなことを悶々と考えながら予定を調整し、こうして実行に移せたのは最初のメッセージから数週間が経過した頃だった。

「まさか、リナリアから連絡をもらうなんて思ってもみなかったよ」
「あはは……それ、わたしが一番思ってるかも。まさか自分からマサルを誘うようになるなんて、我ながらすごくびっくりしてる」

 どこかぎこちなさ混じりに歩くわたしたちは、市場の活気がひどく眩しいバウタウンを訪れていた。うっすらとした潮風と海の匂いが気持ちよくて、なんだか普段よりも深い呼吸ができている……気がする。

(なんか、ちょっと変な感じだな。この町をマサルと一緒に歩いてるなんて)

 ターフタウンから程近いこの町は、わたしにとって憧れのデートスポットだった。
 いつか、大好きな人とこの町を歩くことができたら。何気ない話を何度も繰り返したり、夜景を見ながら寄り添ったり――ラブカスですら真っ赤になってしまうような、熱烈な愛の言葉をささやきあったりなんかしちゃってさ。
 幼い頃のまだまだ夢見がちだったわたしは、どこから仕入れたのかもわからない恋人同士の睦言に、ひどく興味津々だった。諸用でこの港町に足を運ぶたび、空を飛び交うキャモメや水面を跳ねるバスラオの顔を見比べながら、そんなことばかり考えていたものだ。
 そして今、わたしの隣にはマサルがいる。別に恋人ってわけじゃないけど、ここしばらくの出来事のおかげで彼に対して特別な感情を抱くようになっているのは事実だ。
「好き」かどうかはわからない。でも、少しだけ「特別」ではある。そんな、不思議な立場の人だ。
 どこまでもおだやかな目で水平線を眺めている横顔は、とてもじゃないけど一世を風靡する新チャンピオンには思えない――ここにいるのは、どこかあどけない顔をしているだけの、たった一人の少年だ。
 ……否、本当はそう言い聞かせているだけかもしれない。目の前にいるのはただの男の子なんだって、何にも特別なんかじゃない普通の子供だって、そう思いたいだけなのかも。
 彼は普通の男の子だから、わたしが隣にいたって別におかしくない。落ちこぼれが一緒にいても迷惑になんかならないし、マサルの手を煩わせることもない――そうして悩んでしまうこと自体が、わたしの「答え」なのだろうけれど。
 わたしは鈍く重たいため息をなんとか飲み込んで、マサルと共に海を見やった。……水平線の向こう側には、果たしてどんな世界が広がっているのだろう。
 
「なんか……いいよね、この雰囲気」

 ほんの少しサングラスをずらして、マサルはうっすらと口元を緩ませる。わたしがちいさく頷くと、マサルはかすかに笑みをこぼして、続けた。

「最近、ずっと忙しかったからさ。チャンピオンになってから――いや、ジムチャレンジを始めてから毎日が怒涛なんだよね」
「それはちょっとわかるかも。わたしですらてんてこ舞いだったんだから、マサルなんかはもっとすごいんだろうなあ」
「もちろん悪いことばっかじゃないし、毎日楽しいんだけどね。でも、たまにはどこか別の世界に行ってみたいな、なんて思ったりもするよ。誰もぼくのことを知らない地方、とかね」

 ――なんちゃって。こんなの、自意識過剰かな?
 声だけは妙に明るいくせに、その言葉のひとつひとつには悲哀の欠片が埋められている。
 ……ほっとけない。そう思わせるに足るだけのものが、マサルの一挙手一投足から滲み出ている。わたしにはまったく想像もつかないけれど、がラル地方の新チャンピオンという肩書は、きっとこの細い肩では背負いきれないものなのだろうな。
 
「マサル……もしかして、ちょっと疲れてたりする?」
「さあ……どうかな。まあ、ありがたいことにみんなが遊びに誘ってくれたりするから、息抜きはできてると思うけど」

 ほら、この間も一緒にカレー食べに行ったもんね――言いながら、マサルはわたしを振り返ってやんわりと目を細めた。
 バウタウンへの理想を一身に受けたような微笑み。その顔が妙にわたしの頬を熱くしたのは、きっとまばゆい太陽のせいなのだと……そう、思いたい。

「だから、こんな時間は貴重だな。こんなふうにゆっくり過ごすなんて、本当にいつぶりだろう――」

 マサルは、ぽつりぽつりとバウタウンでの思い出を話してくれた。
 この町の景観がとても好きなことや、みずジムのギミックを初めて見たときに度肝を抜かれたこと……それから、ここでローズ元委員長から食事に誘われたこと。最後のひとつにはどう反応するべきかわからなかったけれど、それ以外にはうまく話を合わせることができたと思う。
 わたしが相槌を打つたび、マサルはひどく嬉しそうに笑ってくれる。その些細なやり取りが、わたしは妙に嬉しかった。

  
 そうして何気ない世間話を重ねながら、わたしたちはゆったりとしたひと時を過ごした。気づけば水平線は夕陽によってオレンジ色に染まっていて、いわゆる帰宅ラッシュとでもいうべきか、町並みは昼間と少し毛色の違う、解放感を伴った活気に包まれている。
 疎らだった通行人が少しずつ増えはじめたからか、マサルは人目を避けるように、サングラスをかけなおす。はじめはバレバレな変装だと思っていたけれど、今まで特に声をかけられたりしていないあたり、思いの外こうかはばつぐんなようだ。
 サングラスのテンプルに手をかけたまま、マサルは考え込むような素振りを見せる。そして再びわたしに向き直り、意を決したように口を開いた。真っ黒なレンズに反射するわたしの表情は想像よりも気楽なふうに見えて、我ながら少し意外だった。

「リナリア……最近、ちょっと雰囲気変わったね?」
「えっ……そう?」
「うん。なんか、無理してる感じがなくなったっていうか……自然に笑うようになった気がする」

 サングラス越しにでもわかる、マサルが淋しげな顔をしていたこと。それは夕陽の寂寥感も相まってか胸の奥をちくりと刺激して、ひどくわたしを苦しめた。
 思い当たる節は――正直なところ、とてもある。

「多分、マリィに話を聞いてもらったからかな? ちょっと相談したいことがあって、流れで色々ぶちまけちゃってさ。そのおかげで妙にすっきりしたっていうか」
「そっか。きみたち、本当に仲が良いもんね」
「そうだねえ……ちょっと照れくさいけど、わたしにとっては一番の親友、かな。でも、マサルとホップも同じくらい――」

 言いかけて、発言のいっさいを後悔した。わたしの言葉を受けたマサルが、ためらうように目を逸らしたから。
 まだ華奢な造りの拳を、マサルは強く握りしめる。爪が食い込みそうなほどに力が込められたそれは、マサルの胸の痛みを言葉よりも強く示しているように見えた。

「少し前まではそうだって、胸を張って言えたけど……今は違う。……ホップはきっと、ぼくのことを恨んでるから」

 マサルの口から漏れ出たのは、静かだけれどひどく悲痛な叫びだった。わたしは思わず半歩を踏み出して、マサルとの距離をほんの少し縮める。
「どうして?」わたしが訊ねると、マサルは声を震わせながら答えてくれた。

「リナリアは、ホップの夢が『ダンデさんみたいなチャンピオンになること』だったって……知ってる?」
「あ……うん、もちろん。それ、顔を合わせるたびに言ってたもんね」
「そう。……でも、今のチャンピオンはホップじゃなくて、ぼくだ。この意味、わかってくれるかな」

 マサルの声が震えている。今にも泣き出しそうなそれはまるで幼子のように頼りなく、考えるよりも先にわたしの手を動かした。
 キツく握りしめられたマサルの手に手を重ねると、強張っていたそれがわずかに緩む。

「……ぼくが、ホップの夢を奪ったんだ」
「マサル、」
「あんなにキラキラしてたのに。……あんなに、いつもいつも『アニキを越える』『アニキはオレの憧れなんだ』なんて言ってさ、一生懸命、頑張ってたのに――」

 マサルの指が、そっとわたしのそれに絡められる。唐突なふれあいにほんの一瞬ひるんだけれど、これを拒絶したらきっとマサルをこのうえなく傷つけてしまうだろう――ゆえにわたしはマサルのいっさいを受け入れると決め、迷わずそれに応えた。
 指先をゆっくりと絡めあった途端、まるでマサルの悲嘆が胸に流れ込んできたような気がした。……少しだけでも、その痛みを共に背負うことができたらいいのに。わたしはその一心で、にげるように海を眺めるマサルの目を見つめた。

「楽しかったんだ。ポケモンバトルも、ジムチャレンジも。ホップと――いや、みんなと一緒に切磋琢磨して、笑いあって、ライバルだなんて言ってさ。毎日が、ずっと輝いてて」
「うん」
「けど、そうして夢中になればなるほど、ぼくはホップのことを傷つけてたんだ。……嬉しかったんだよ。トーナメントでホップに勝てたとき、本当に本当に嬉しかった――でも気がついたんだ、悔しそうに笑うホップの顔を見たときに、一気に我に返った。ぼくはひたすらむじゃきにホップの夢を踏みにじってたんだって、世界が真っ暗になったみたいな気持ちで……」

 サングラス越しの滲んだ瞳を、わたしはこの目でたしかに捉えた。けれど、そのうえでわたしはどうしても彼を「否定」しなければならなかった。
 ……これこそがきっと、あの日に「彼」が言っていたわたしにしかできないことだ。

 ――オレ、オマエにマサルのことを頼みたいんだ――

 まばたきの合間、あの日のホップの横顔がまぶたの裏によみがえる。
 ホップがマサルのことを恨んでいたとしたら、あんな顔できるはずがない。そもそもわたしに声をかけることもなかっただろうし、マサルの些細な変化に気がつくこともないはずだ。
 ホップはマサルを恨んでなんかない。だって、今でもずっとマサルのことを心配してくれてるんだもん。――だから、こんなにも自分勝手で歪んだ誤解は、さっさと払ってあげなくちゃ。
 傍から見ればそんなのありえないってわかるのに、自分のこととなると途端に視野が狭くなるのは、どんな人でもそうなんだな。
 ……もしかすると、マリィもかつてのわたしを見ながら同じことを思ったのかもしれない。じゃあ、マサルとわたしって似た者同士だったりするのかな? ――なんて、そんなのさすがにおこがましすぎるかな。

「ホップがマサルのことを恨んでるなんて、そんなのあるわけないよ」
「……なんで、リナリアがそう思うの?」
「この間、みんなで一緒に遊んだでしょ。あのとき、ホップに言われたの。『マサルのこと頼みたいんだ』って」

 ――ぴくり。絡みあった指先が、ほんのかすかに揺れ動く。にげるような動きのそれをわたしはしっかりと絡めとって、真っ黒なレンズ越しの不安げな瞳をまっすぐに見つめた。
 みゃあ、となきごえをあげるキャモメたちが、頭上を何匹も飛び交っている。夕暮れの寂寥とした空気を振り払うようなそれに負けじと、わたしはマサルに語りかける。

「ホップね、マサルのことすっごく心配してたよ。マサルの些細な変化にもちゃーんと気づいてたみたいだし」
「……ホップ、」
「さっき、マリィに色々相談したって言ったでしょ? なんか今ね、そのときのマリィのこと思い出しちゃった。きっとホップもマリィと一緒なんだと思うの。わたしたちが思ってる以上に、みんなはわたしたちのことを大切に思ってくれてるのかもしれないって」

 ……だから、マサルとホップも大丈夫だよ。すぐ元通りになれるから。
 わたしがそう言うと、マサルはちいさく嗚咽を漏らしながら、わたしにぐっと覆い被さってくる。見た目よりもがっしりとして重たい体をしっかりと受け止め、あどけない背中をやわらかく撫でた。

「ごめん……リナリア、ありがとう」

 涙混じりのかすれた声が、耳元から直接響く。変声期を迎えて間もない少年の声はひどく頼りなくて、わたしの胸の奥に眠っていた庇護欲をゆっくりと呼び起こす。
 ――わたしが守ってあげなくちゃ。そんなふうに思ってしまったのは、きっと、優秀なポケモントレーナーでも、一世を風靡したチャンピオンでもない、ただの「マサル」のすがたを垣間見たからなのだろう。
「大丈夫だよ」と背中を撫でると、マサルの両腕はキツくわたしに縋りついてくる。そのさまはひどく幼く見えて、ひときわに愛おしく感じられた。
 わたしたちの寄り添いは、バウタウンの波止場の片隅で長く繰り広げられている。それは太陽がすっかり沈んで気温が下がり、どちらともなくくしゃみをしてしまって笑いあう、その瞬間まで続いたのだった。

 
2025/02/02

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