背中に妙な違和感がある。
否、違和感といっても嫌悪するようなものじゃない。なんとなく淋しいというか、物足りないというか、まるで何か忘れ物でもしているかのような、不思議な感覚があるだけだ。
この違和感がいつ現れたのか? そんなの、もはや考えるまでもない。先日マサルと共に過ごした、バウタウンでのひと時からだ。
あの日、必死で縋りついてきたマサルのことが忘れられない。まるで迷子の子供みたいに不安げな目を覗かせていた、たった一人の男の子――年下のあどけない少年の手のひらが、ずっとわたしの背中に貼りついたままなのだ。
一人になんかしておけない。わたしが守ってあげなくちゃ。おこがましい誓いは潮風の匂いやキャモメのなきごえと共に、五感と連なるようなかたちでわたしのなかに染みついていた。
「わたしに、何ができるんだろう……」
無意識に口からこぼれたひと言は、部屋の隅で遊んでいるタタッコには聞こえていないらしい。タタッコはわたしのお気に入りのフシギダネぬいぐるみとにらめっこしながら、うろうろと部屋のなかを練り歩いていた。タタッコのむじゃきな振る舞いを見ていると、なんとなく心が癒やされる。
ふかふかのベッドに腰かけながら、うつむく。最近は、こんなふうに考え込むことが非常に増えた。
――ぴこん。わたしの取り留めもない思考は、スマホロトムのちいさななきごえにより遮断された。聞き慣れたそれにほんの少し胸を躍らせながら、慌ててスマホロトムを取り出す。
噂をすればなんとやら、差出人はマサルだった。エースバーンアイコンから送られてきたメッセージはいつもどおり簡潔なものだったけれど、余計な文言が混じっていないからこそ、まっすぐにわたしの心をつつく。
『来週、どこか空いてる?』
『もちろん! 来週なら水曜日と土曜日が暇かな』
ふるえる指で返信を打つ。本当は毎日空いてるけれど、暇な女だと思われたくなくて虚勢を張ってしまった――わたしが暇人であることなんて、マサルにはきっとおみとおしなはずなのにね。
『よかった! 実はさっき、エキシビションバトルのお礼にってシュートランドのチケットをもらったんだ。もしよかったら一緒に行かない? この間のお詫びもしたいしさ』
この間の、お詫び。そのひと言で、わたしの背中に先立っての違和感が戻ってきた。
……マサルは、あの日のことをどう思っているんだろう。わたしがこうやって忘れられずにいるのと同じように、マサルのなかにも何かしら、わたしの欠片が残っていたりするのかな。
マサルのなかにわたしがいるとしたら――それはなんだか、ひどく嬉しい気がするな。
『いいの? 嬉しい! わたしでよければ、ぜひ一緒に行きたいな』
じつはね、今ちょうどマサルのことを考えてたとこだったんだよ――
差し出がましい言葉は打ち込んだあとに削除して、代わりに笑顔のヨクバリスのスタンプを送る。そのまま、既読のつかないトーク画面をぼんやりと眺めていた。
……きっと、忙しい合間を縫ってメッセージを送って送ってくれたんだろうな。わずかな隙間をわたしのために使ってくれた事実を嬉しく思ってしまうのは、わたしが以前より何倍もマサルのことを意識しているせいなのだと思う。
「こんなの、もう好きって言ってるみたいなもんじゃんね」
肩をすくめて笑いながら、スマホロトムの画面を消す。こちらを向くタタッコに両手を広げると、タタッコはぬいぐるみを放り出して思い切り胸に飛び込んできた。
その勢いのままこてんと後ろに倒れ込んで、まるい頭を撫でながら思案にふける。
(……わたし、もうスイッチなんか入れなくても明るくやり取りできるんだな)
少し前のわたしなら、あの瞬発力で前向きな返事をすることなんてできなかった。わたしより他の人を誘ったほうがいいんじゃないかとか、むしろ空いてるのがわたししかいなかったからなのかなとか、マサルの好意を全部無視して、余計なことばかりをぐるぐると考えていたと思う。
けれど、今は違う。前に比べていくらかすなおに人の言葉を受け入れることができるようになったし、意味のない深読みをすることもずいぶんと減っている。
わたしはきっと、変われている。そんな確信を胸に秘めながら、わたしは来たる日への期待に胸を膨らませていた。
◇◇◇
「……り、ばり、りっす?」
「あはは……うん、ちょっと緊張してるみたい」
そんなこんなで迎えた当日、わたしは妙にそわそわしながら、遊園地――もとい、シュートランドのゲート脇に立ち、行き交う人々を眺めていた。
傍らのヨクバリスも様子のおかしいわたしをとても気遣ってくれていて、とっておきのモモンのみを差し出してくれた。やわやわに熟したそれは、手に取るだけでなんとなく心が落ちつく気がする……きっと、ヨクバリスの優しさや思いやりがきのみにたくさん染み込んでいるからなのだろう。
……なんか、ちょっと懐かしいな。手のひらのモモンのみを眺めながら、あの日の――わたしの運命がおおきく動いた、マサルとの邂逅を静かに振り返る。
あのときはもっと鬱屈とした気持ちでこの場所に立っていたっけ。当時のわたしはマリィにたいする後ろめたい感情を受けいれることもできず、一人で悶々と悩みつづけていた。大切な親友に醜いくらい嫉妬して、そんな自分が許せなくて、気分転換がしたくて――けれど、それだけを理由にこんな浮かれた場所まで足を運ぶなんて、わたしもなかなか血迷っていたらしい。
「ほんと、変なの」
「ばり?」
「ううん、ヨクバリスのことじゃないよ。昔の自分がおかしかっただけ」
わたしの言うことがよくわからないのか、ヨクバリスはこてんと首を傾げて考え込む。そののんきな振る舞いはいつもわたしを和ませてくれて、沈みそうになる心を何度も救ってくれた。
「ヨクバリス、いつもありがとうね」
「り!」
ふん! と胸を張るヨクバリスがなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまった頃。こちらにまっすぐ突き進んでくる人影が目に入り、わたしはおおきく手を振った。
どれだけ変装していても、その正体はすぐわかる。もちろん変装が杜撰とかではなくて、きっとここしばらくで彼の癖や立ち居振る舞いをすっかり覚えてしまったからだろう。
「ごめんね、待ったかな」
「ううん、全然。今来たばっかり!」
本当は、待ちきれなくて二十分前には着いてたんだけどね――寝不足のまぶたをはたはたと動かしながら、わたしは待ち人に――マサルに向かって笑いかけた。
前回と同じハーフリムサングラスに、目深にかぶったグレーのキャスケット。極力「個」を排除したその装いの向こうには、相変わらずの涼し気な笑みが隠れていた。
……あのときと、同じだな。こちらに向かってまっすぐ歩いてくるのも、ヨクバリスと三人でここに立っているのも。違うところがあるとすれば、わたしの心持ちと、マサルの瞳が薄いガラスで覆われているということくらいだろうか。
まだ精々数ヶ月しか経っていないはずなのに、世界というのはこんなにも目まぐるしく変わってしまうものなんだな。感慨深さにゆったり眉を下げると、目の前のマサルは怪訝そうに首を傾げた。
「リナリア、どうしたの? ……あ、もしかして似合ってない?」
「まさか! そんなことないよ、すっごく似合ってる。……ごめんね、なんか懐かしくなっちゃったんだ」
ここでマサルと話したのが、なんだかもう遠い昔のことみたいに思えてさ。わたしがそう言うと、マサルは「たしかにね」と頷いてくれた。
照れくさくなったわたしが頬を掻いていると、マサルはそうだ、となにかを思い出したように声をあげ、サングラスの向こうにある瞳を晴れやかに輝かせた。
「覚えてるかな、この間、ダイマックスポケモンがあばれる事件があったでしょ。じつはあのとき、ホップとゆっくり話す機会があったんだけどさ――」
マサルの話を聞く傍ら、わたしは先日の騒ぎについて思い返す。幸いにもターフタウンでの被害はそれほどおおきくなかったらしくて、わたしが騒ぎを耳にした頃には、もうすべてが終わっていたんだけど……
そっか、あの事件にもマサルが関わってたのか。圧倒されるような納得のような複雑な気持ちを抱えながら、わたしはマサルに「どうだった?」と訊ねてみる。わたしの質問にマサルは肩をすくめながらも、憑き物が落ちたかのごとく明るく笑った。
「結論から言うと、すごい勢いで怒られちゃった」
「あ……やっぱり?」
「あはは、うん。でも、『大丈夫』とも言ってたよ。『オマエは何にも悪いことしてないんだから、もっと胸を張ってればいいんだぞ』ってね」
言いながら、マサルはやわらかく目を細める。その表情は今まで見てきたなかでも一番やさしくて、彼にとってホップという存在がどれほどおおきかったかを、このうえなく知らしめてきた。
わたしにも覚えのあることだ。きっと、マリィと和解したあとのわたしもこんなふうに見えていたのだろうな。
わたしたちは出自も実力も何もかもが違うのに、時おりまるで鏡のようにお互いを映し出していると、そんなふうに思うことがある。その距離感が、わたしはなんとなく心地よかった。
思わず頬をゆるめてしまうわたしを、マサルはじっと見つめてくる。
「……なんか、今日のリナリアはよく笑うね」
「え、そうかな?」
「うん。……ねえ、ヨクバリスもそう思うよね?」
「ばり!」
かじっていたきのみを掲げながら笑うヨクバリスに、わたしたちは顔を見合わせながら吹き出してしまった。
そろそろ人混みも混雑してくる頃合いだと思い、わたしはヨクバリスをモンスターボールへとおさめる。あまり珍しいポケモンではないし、わたし自身もそれほど顔が知れているわけではないけど、身バレなんていうのはちょっとの油断で起こってしまうことだから、注意するに越したことはない。
……何より、せっかくのおやつタイムを人混みに邪魔されちゃったらかわいそうだしね。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
そうして、わたしたちは意気揚々とシュートランドに足を踏み入れたのだった。
長くなりそうだったので分割しました
2025/02/05
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