君のその声で

 ――いい名前ですよね、「三笑」って。
 とある休日の、午後三時。玉阪から少し離れたワンルームマンションにて、私たちはゆったりとした時間を過ごしていた。大学に通うため始めたひとり暮らしはなかなか不便なところもあるが、こうして二人っきりで好きなようにしていられるメリットと比べれば、そんなものはへでもない。
 そうして二人でのんびりと過ごしている最中。唐突にそう言った創司郎は、とろけるような顔をしながら私の肩に寄りかかっている。幸せにめいっぱい陶酔した様子はひどく危うげなようで、反面、このうえなく愛おしく見えた。
「そう? ぼ――私はこの名前、あまり好きではないけど」
 せっかく褒めてくれたのに否定の言葉を返すだなんて無粋だなあと思うけれど、それでも私にこの名前を受け入れるのは、少し難しいことだった。
 ――また、「僕」って言いそうになっちゃったな。
 それは、ユニヴェールの三年間で染みついた一人称。雛杉三笑として生きる生活に戻ってからもその癖は抜けてくれず、未だにぽろっと、あの三年間の残滓が口からこぼれそうになる。
 創司郎のようにあの頃の事情を知る人間相手ならまだしも、アガタ時代の後輩と話しているときにやらかすとつい肝を冷やしてしまう。まあ、こういったことをごまかすのは苦手でもないので、なんとか事なきを得ながら今に至るのだけれど……いつかどこかでとんでもないことをしでかすのではないかと、自分のことながら少々気が気でない。
「そうなんですか?」
「うん。実母がつけたものらしいけど、真意もよくわからないし……今の私には、少し皮肉に思える」
 三笑という名前に込められた意味が何なのか。今の私には知る由もないのだけれど、それでも、色々と思うところはあるのだ。
 演劇を学んでいた人間にあるまじき事態だが、元来私は笑うことが得意ではない。最近は少しずつ表情筋も柔らかくなり始めたけれど、それでも普通の人に比べたらまだまだ硬いわけで。それなのにこんな名前を背負わされているだなんて、名前負けというか不釣り合いというか……
 とはいえ、名前をつける段階でその子供がどんな大人になるのかなんてわかるはずもないし、私がこんなふうに歪んでしまったのもひいては生い立ちに由縁するものなので、今さら実母に恨み言を言うのはお門違いなのだが……そうやってさっくり片づけられるほど、私にとってこの問題はそう簡単なものではなかった。
 私の後ろ向きな否定を受けた創司郎は、じっと目を伏せて考え込む素振りを見せる。いつもどおりの顔だ。
「……僕、少し前に高科家についていろいろ調べたことがあるんですけど」
 昔と比べて言葉を押し込む部分は減ったが、それでもやはり、一度は言葉を飲み込んで、しっかり噛み砕いてから発言する癖は変わらない。
 私が沈黙と視線で続きを促すと、創司郎は目を伏せたままゆっくりと言葉を紡ぐ。
「高科家は高科流の家元ですから……襲名制度があるんですよね。一助と、二千奥っていう」
「ああ……らしいね。私もよくは知らないけど、一助は長男が、二千奥は高科先輩が継ぐことになるそうだよ。家元になるのは二千奥だったかな――」
 私の返答に確信を得たのか、創司郎は伏せていた目を開き、私のほうへ向ける。
 迷いはない、けれど、なんとなく躊躇ってはいそうな瞳だ。
「三笑さんの名前を実のお母様がつけたのなら、もしかすると、二人につらなる名前として考えたのだとは考えられませんか?」
「どういうこと?」
「フミさんと、三笑さん……男女の双子なんて忌むべき存在として生まれたのだとしても、そこにはちゃんと、母親としての愛情があったんじゃないかなって」
 名前は生まれて初めて親からもらうプレゼントなんだよって、継希くんや希佐ちゃんがよく言っていたから――
 そう続ける創司郎は情景の念につつまれた目をしていて。その顔がひどく好きだと思う自分と、嫉妬心で狂いそうになる自分が共存している。未だに彼のなかには立花希佐の存在が根強く息づいているのだなと、どうしようもない現実を突きつけられたような気がした。
「あ――す、すみません! 僕、出過ぎたことを言ってしまって……」
 複雑すぎる心境を落ちつかせようとしていたせいか、いつもより険しい顔をしていたらしい。創司郎は弾かれるように身を離し、気まずそうにわたわたと、視線を彷徨わせている。
 私の反応が悪かったせいであるが、どうせ踏み込みすぎだとでも思ったのだろう。遠慮なんてもの、私たちのあいだにはもはや不要だというのに。
「いや……ごめんね、色々考えてて。今まで、そんなふうに思ったことがなかったから」
 私が素直に胸の内を吐くと、創司郎はおずおずと再びひっついてきて、続きを促すように目を向けてくる。こうしてお互い視線で言葉を乞うようになったのは、果たしていつの頃からだったかな。
「ずっと恨み言ばかりだったから。私にとっては実父も実母も、血縁こそあれ他人みたいなものだし」
「あ――」
「ひな屋のお義父さんのほうがよっぽど近しい家族だよ。あの人にはたくさんの恩があるからね」
 肩に乗る創司郎の頭へ、私もこてんと頭を預ける。文字通り寄り添うような触れあいは度々やっていることで、このまま何もせずに夕暮れを過ごすことだって何度もあった。
「でも……不思議。君の言葉だからかな、素直に受け取ってやろうと思えるのは」
 愛おしい人からの言葉は、相変わらずしっとりと、染み渡るようにこの胸のなかへ滑り込む。
 生まれてすぐに捨てられた自分。一度も高科家の敷居をまたぐことなく、親戚をたらい回しにされ続けた幼少期。決して短くはない日々はこの心に消えない傷を与え、今の歪な人格を作り出した。すべてがあの親の、あの家のせいだと言うつもりはないが、それでもその一端を担っているのは間違いない。
 だからこそ、あの親にもらったこの名前を好きになれなかったのかもしれない。私にとっては忌々しくもあるあの両親との、確かなつながりであるから。
 けれど――もしもそこに、ひどく不器用でなけなしの、母からもらった愛があるなら。私に、それを信じられるだけの余裕が生まれているのなら――
「……ねえ、創司郎。創司郎は、私の名前好きなんだよね」
「え? あ……はい。とても」
「じゃあ、呼んで。私の名前、三笑って、たくさん呼んでよ」
 そうしたら私も、この名前のことを好きになれるかもしれないから――
 そう言うと、創司郎は少しだけ気恥ずかしそうに微笑んで、薄いくちびるを開くのだった。
 

2022/03/31