meaning

 ――これ、三笑さんに似合いそう。
 思わず手にとってしまったのは、彼女の艷やかなくちびるを思い起こさせる上品な色のリップだった。すぐにでもやってくるだろう秋の香りをまとうそれは、少しくすんだ金髪と、女性にしては低い、響くような優しい声を五感に蘇らせてくる。
 彼女が――雛杉が卒業して早数ヶ月。心にぽっかりと穴が空いたような、無視のできない空虚を抱えた日々を世長は過ごしていた。
 在学中のように毎日会うことは叶わなくなってしまったが、それでも電車に乗りさえすれば簡単に顔を見ることができるのは、せめてもの救いだろうか。おのれの体質を理解している世長は、彼女が地方出身だったら目も当てられないことになっていただろうなと自嘲をこぼす。
 ずっとそばにいられなくなって、在りし日にあった「当たり前の幸せ」に感謝する傍ら、思えば彼女のことを考える機会は日毎に増えている気がする。むしろ今までが近すぎただけだし、すぐ会いに行ける距離で何をのたまっているんだと怒られそうではあるが、この数ヶ月で遠距離恋愛に悩む人間の気持ちに強く共感するようになった。
「あの子」と遠く離れて苦しんでいた、闇のような数年とはまた違う苦痛だ。想いあっているからこそ、この手の内にある存在だからこその痛み。振り返ればそこにいたはずの彼女が今はいないなんて。
 思えば思うほど突きつけられる孤独はじわじわと世長を蝕んでおり、嗚呼、ほら、今日も少しでいいから会いに行ってみようと、通い妻のような行動を彼に起こさせるのだった。
「……あ、」
 手の内、といえば――世長は、今おのれの右手に納められているリップへと意識を戻した。優しく穏やかな色は、どこか寂寥を抱えた彼女にひときわ似合うように思えた。
 ゆっくりとそれを握りしめて、刹那。右方向に人の気配を感じて、世長は思わず息を呑む。
「いらっしゃいませ、お客様。そちら、恋人さんにですか?」
 声をかけてきたのは品の良さそうな……おそらくこの店の店員、らしい。柔和な笑みを浮かべるその様は人間の警戒心を根こそぎ奪っていくようで、かつて狂おしいほどに想っていた「あの子」のことを思い出す。
 太陽みたいに朗らかで優しかったあの女の子も、こんなふうに人の心を和らげるのが得意だった。
「あ――ええと、僕、ユニヴェールの者で」
 はにかみながらそう言うと、彼女は何かを察したように会釈をする。失礼致しました、という謝罪に続いたのはリップの選び方やコスメたちの説明で、右から左の言葉たちを世長は生返事で受け流した。
 ――はやく会いたい。顔が見たい。このリップをあの人にプレゼントして、それから――
 今日は、破損してしまったメイク道具を急遽買いに来ただけだというのに。左手にすっしりと感じる買い物かごの重さすらふわふわと消えていき、まるで夢の中にいるような気持ちにさせた。
 いま世長の心を占めるのは雛杉のことばかりで、もう他の人間のことも、言葉も、何も響かなくなっていた。

 
20210924