陽に透ける桃園の景色

 毎年、誕生日が近づくとふと思い出すことがある。
 もう十年近く前のことになるだろうか、それは残暑に片足を踏み入れた頃の、ほんの少し風が涼しくなってきた、九月初旬のことだった。ぼくは行秋や香菱が誕生日のお祝いをしてくれると聞き、万民堂へと赴いたのだ。
 こわごわとしたぼくを出迎えてくれたのは、みんなからのお祝いの言葉と、ぼくでも食べられる冷たくておいしい料理、それから、心のこもった大切なプレゼント――あの日は「純陽の体」に怯えながらも胸をいっとうわくわくさせて、皆からの気持ちを受け取った。
 その後、ぼくは両手でやっとなくらいのおおきな包みを抱えて、万民堂からの帰路についていたとき、珍しい人間と顔をあわせることになった。それが、この思い出の始まりだ。
  
『重雲、そんな大荷物でどうしたの?』

 その日は、珍しく桃琳が屋敷の外を出歩いていた。相変わらず包帯は痛々しく映ったが、いつもより顔色が良くて嬉しかったことを覚えている。

『みんながくれたんだ。今日はぼくの誕生日だから――』
『誕生日? ……ねえ、誕生日って何?』
『えっ……お姉さん、誕生日を知らないの……!?』
『? うん、知らないよ。だって、お父さんはそんなことちっとも教えてくれないもん』

 桃琳は、ひどく純粋かつ無邪気に、異様な質問を投げかけてきた。
 あの頃の桃琳は、まるで少しずつ人としての感情を取り戻しているかのような風合いをしていて、だからこそひどく恐ろしかった。中途半端に人間らしい色を湛えた瞳であるからこそ、彼女から抜け落ちている一般常識が特異なもののように見えて、ぼくは一瞬後ずさりをしてしまったのだ。
 ぱち、ぱち。淡い桃色の双眸が、ぼくを見つめて揺れている。その瞳のきらめきでぼくははっと意識を取り戻し、少ない語彙でなんとか「誕生日」の意味を伝えようとした。

『誕生日っていうのは、みんなが生まれた日のことなんだ。ぼくは八年前の今日に生まれたから、九月七日が誕生日。それで、誕生日は新しい命が芽吹いたとてもすばらしい日だから、みんなでこうしてお祝いをするんだけど――』
『誕生日のお祝いで、重雲はプレゼントをもらったってこと?』
『そう。仲の良い人や家族の誕生日は、みんなお祝いしたいものなんだ。だから、できるならぼくもお姉さんの誕生日をお祝いしたいけど……その、誕生日が何なのかを知らないってことは、つまり、お姉さんは自分の誕生日もわからないってことだよね……』

 ぼくの問いかけに、桃琳はいっさい迷うことなくうなずいた。その純粋な微笑みは、包帯に滲む血の色より何倍も痛ましい。
 ぼくが言葉を選んでいると、突然二人の間を鋭い風が通り抜ける。突風は桃琳の長い髪を激しく揺らし、太陽に透けたそれはまるで桃の花びらと錯覚するほど美しかった。……ぼくは、今でもまばたきひとつであの光景をはっきりと思い出せる。

『きれいな、桃の――あっ、そうだ!』

 目の前に広がる桃園を前に、ぼくは思い出したのだ。自分の家の庭で毎年、桃琳の髪の色とよく似た花が開いていたことを。

『ねえ、お姉さん。今度……えっと、春になったら、一度ぼくの家においでよ』
『なんで?』
『ぼくの家の庭に桃の木があるんだ。毎年春になるとかわいい花を咲かせるんだけど……一番最初の花が咲いた日を、お姉さんの誕生日にしよう。お姉さんの名前と同じ名前の花だし、そうしたら、毎年誕生日が楽しみになるだろ』

 ぼくの拙い提案に、桃琳は風で散ってしまった髪の毛を整えながら、何度もまばたきを繰り返している。そうして、今まで見たことがないくらいまっすぐで明るい笑顔を浮かべて、ぼくの瞳を強く射抜いた。

『うん! 約束だよっ』

 言いながら、桃琳はそっと小指を差し出してくる。
 指切りのお誘いには今すぐにでも応えたかったけれど、あいにくとぼくの両手は誕生日プレゼントですっかり塞がってしまっている。どうするべきか悩んだぼくがまばたきを繰り返していると、桃琳は何かに気づいたように笑って、ひと言「ごめんね」とだけ告げた。

『そういえば、そのプレゼントは誰からもらったの? このあいだの男の子?』
『あ……うん、そう。こっちは行秋で、これが香菱。それから、これは――』

 このとき、桃琳がぼくを困らせないよう咄嗟に話を逸らしてくれたのだと気づいたのは、つい最近のことだ。
 ほんの少しだけ目を細めた彼女に、ぼくは必死でプレゼントの紹介をした。大切な友人たちのことも一緒に。
 その何気ないひと時も、今のぼくにとってはかけがえのない思い出であり、大切な記憶のひとつである。

 
(……懐かしいな)

 この時期になると思い出す。またこの秋風とともに桃琳に会えるんじゃないかって、意味もなく往来をぶらついてしまうくらいには、この出来事はぼくの脳に強く刻みつけられているらしい。
 春になれば今度は庭の桃の花が少しずつ綻んできて、花びらが顔を覗かせるたびに、桃琳の笑顔が頭をよぎる。風が桃の葉を揺らせば彼女のささやきが聞こえた気がして、思わず窓の外を覗いてしまうときだってある。
 ぼくは、未だ乗り越えられそうにない。桃琳との日々はこの胸の奥に深く深く突き刺さって、一ミリだって動く気配はなかった。
 ――はやく会いたい。そんなことを、頻繁に考えてしまうのだ。

「……ああ、くそ。しっかりしなきゃダメだ、こんなんじゃ――」

 ぼくはゆっくりと深呼吸を繰り返して、腹の底に溜まった雑念を静かに振り払っていく。こんなふうに沈んでいては一人前の方士にはなれないし、桃琳だって呆れ返ってしまうだろう。
 いつか彼女に会いに行くときのために、ぼくは誰もが目を見張るような立派な人間にならなければいけないのだから。ぬるい秋風を肺いっぱいに吸い込みながら、ぼくは璃月の抜けるような秋空を見上げていた。

 
重雲くんお誕生日おめでとう
2024/09/07