夕暮れの黒猫

「……で、そのプレゼントがこのドレスってわけ」

 試着室から出てきたミラは、どこか恨めしそうに俺のことを睨めつけてくる。
 小柄な体型の彼女であるが、俺の見立てたドレスは想像以上によく似合っていた。漆黒のそれは彼女の秘めたる種を引き立てるようであり、その魅力をひときわに強めている。
 本当なら「千織屋」のものをプレゼントしてやりたかったのだけれど、あの店の品を手に入れるのはどうにもひと筋縄ではいかないらしい。機会に恵まれなかったのは残念だが、この際次は思い切ってオーダーメイドのものを贈ってやろう。

「うん、うん。よく似合ってるよ。やっぱり君は白より黒のほうがいいね――既製品ではあるけど、まるで君のために作られたみたいだよ」
「どうだか……」
「アハハ、俺がお世辞を言う人間に見えるかい?」

 そう言ってやると、ミラはまんざらでもないふうに鼻を鳴らす。そのまま口をとがらせながら近くの姿見とにらめっこをはじめ、くるくるとまわってスカートの踊るさまを楽しんでいるようだった。
 氷の瞳は、仏頂面を演じながらもどこかきらきらと輝いている。その瞳に宿るのは、それこそどこにでもいるような女の子が、至って普通にショッピングを楽しんでいるときのそれと相違ない。
 尖らせた唇の先で、ほんのりとした喜びを遊ばせている。俺はミラの後ろにそっと立ち、戦いなんて露も知らないような細い肩に手を置いた。

「楽しい?」
「まあ……それなりに。ドレスなんてあんま着たことないし……特に、黒だと尚更」
「そうなの? 今まで勧められたことは?」
「一度も……」
「アハハ、そっかそっか。どうやら、君の周りは見る目のない人間ばかりだったみたいだね」
「そんなこと初めて言われたけど」
「そう? 君の髪や瞳の色には黒がよく似合うと思うんだけど――何よりほら、服が黒いと返り血が目立たないだろう?」

 ほんの一瞬、ミラの肩が強張った。
 無理もないと言えば、そうだ。彼女は「争いの種」を宿してはいれど、きっと戦いとは無縁の世界で生きてきたのだろうから。そんな子供が「返り血」などという物騒な単語を聞いたのだから、反応しないほうが無理というものだ。
 けれど、だからこそ俺はこの言葉を口にした。俺はその先の彼女が見たい……彼女の覚悟を試したいのだ。昨夜彼女が言った「一緒にいたい」という言葉がただの出まかせじゃないことを、他でもない彼女自身の言動で示してほしいと思っている。
 肩に乗せた手のひらにほんの少しだけ力がこもる。こんな些細なことで緊張するとは、我ながら少し情けない。
 
「今さら怖がったって無駄だよ。みすみす逃がすつもりなんてないからね、俺は」
「べ、別に怖がってなんかないし! ちょっと、びっくりしただけで……」
「そう?」
「当たり前じゃん……ていうか、むしろ『返り血』なんて言われてびっくりしないほうがおかしいよ。タルタリヤさんはそういうの慣れてるのかもしれな――」

 彼女の言葉を遮るように、そっとすべらせた指先をよくまわる唇に添えてやる。艶めいたそれを親指の腹でふにふにと弄び、やわらかな感触をひとしきり味わった。
 俺の行動が予想外だったのだろう、ミラはおもしろいほど簡単に大人しくなってしまった。微動だにしないそのさまはもはや石のようであり、呼吸すら止まったのではないかと疑いたくなるほどだ。

「さん付けはもうやめようか。ほら、俺たちってもう他人じゃないし」
「う……」
「できない?」
「でっ……できる! ……た、っタルタリヤ、――」
「うん、そう。よくできました。偉いね」

 リップラインをなぞるのを最後に、ミラのことを解放する。俺の指が離れた途端、ミラはまるで緊張の糸が切れたかのように呼吸を再開した。俺はうつむきがちに揺れる丸い頭に手のひらを置き、艶めいた黒髪を傷つけないよう、やわらかく指を通す。
 ミラは頭を撫でられるのが好きらしく、俺が頭に触れるたびにこうしてぴたりと動きをとめる。そのうち、文字通りされるがままになってしまうのではないかと危ぶむくらいだ。
 ――今だってそうだ。鏡越しに見える丸い頬はほんのりとピンクに染まり、堪えるように目を伏せて大人しくなっている。そのいじらしい様子を前にすると、かつて実家の近くに住み着いていた野良猫のことがよぎり、どこか妙な気分になってくる。

「……なに、その顔」
「え――俺、そんなに変な顔してる?」
「すごく難しい顔してる。眉間にヒビみたいなシワ寄ってるよ」

 知らぬ間に開かれていた氷の瞳が、うっすらとした熱をたたえながら俺のことを見つめている。その視線がどこか居たたまれなくて、俺は自分の眉間をぐりぐりとこねくりまわし、なんとか気分を切り替えようと試みる。
 ……かわいい。そんなふうに思ってしまっているのだ。目の前で従順な素振りを見せる野良猫を、俺の心はひどく持て余してしまっているらしい――彼女が自分のものになったという安心感がそうさせているのか、俺の胸には想像よりも根深く強かな、もうひとつの「種」が芽吹いているのかもしれない。

「そろそろ着替えるから、離して」

 鏡越しに見える待機列を確認したのか、ミラは俺の手から逃れるように試着室へと戻っていった。二人きりと見紛う世界はカーテンが閉まりきった刹那に姿を消し、俺の耳は一気に周囲の雑音を拾いはじめる。
 ――なんだか、どうにも妙な気分だ。たとえるなら、「タルタリヤ」としての俺ではなく「アヤックス」としての俺が顔を出して、あの少女を見ているような。今まで味わったことのない独特の違和感が、俺の足元に巣食っているようである。
 先立ってのミラの表情が頭から離れないまま呆然と立ち尽くしてしまっているのも、きっとその疑惑のせいだ。

(……まいったな。出会った頃より、何倍もかわいく見える……)

 試着室の前を離れた俺は、手近な柱に背中を預けて思案をめぐらせる。彼女の表情と自分の気持ちを悶々とこねくりまわしながら、おのれのなかに生まれた「変化」と向き合うために。
 しかし、悲しいかな。結局その答えはミラが戻ってくる頃になっても見つけられず、夕陽が顔を出す刻限になっても、気分が晴れる気配はなかった。

  
  ◇◇◇

 
 ブティックからの帰り道には、カフェ・リュテスでお茶を飲んだり、歌劇場で演劇を楽しんだりした。エピクレシス歌劇場ほどの規模ではないものの、演者も歌劇もなかなかに洗練されていて、俺自身はもちろん、ミラもなかなかに楽しんでいたようだ。
 後から聞けば、どうやらこういった歌劇を見るのはほとんど初めてだったらしい。道理で瞳をキラキラと輝かせながら、前のめりで夢中になっていたわけだ。
 ミラの横顔を見ていると、ふとしたときにテウセルやトーニャのことを思い出す。愛らしい振る舞いはスネージナヤの凍てついた空気をほんのりと感じさせ、今すぐにでも彼女を連れて実家へと帰りたくなるほどだ。
 きっと、これが彼女の妹然とした側面なのだろう。他人の庇護欲を刺激するその言動は、蠱惑的なほどに俺の衝動を刺激して――そして、そっと手を伸ばさせる。
「妹」と「異性」が両立した感情に、今度は俺のほうがぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。

「……? タルタリヤ、どうしたの?」

 ホテル・ドゥボールへの帰路。夕暮れのなか、不意に立ち止まった俺のことを、振り返ったミラが見つめてくる。抱えた荷物の隙間から見える瞳には夕陽のオレンジが映り込んでいて、息をのむほどに美しく――同時に、融解への名残惜しさを覚えさせた。
 誘われるようにその手をとり、ぐっとこちらに引き寄せる。人目なんて気にする暇もないくらいの衝動で、華奢な体を荷物ごと抱きしめた。
 あからさまに動揺するミラとは打って変わって、通行人の様子は特に変わりがないように見える。こういった場面に慣れているのか、彼らが俺たちに向ける視線はおそらく、「期待」の二文字に染まりきっているのだろう。

「質問があるんだけど、いい?」
「う……その、ここじゃなきゃダメなこと?」
「そうだよ。今すぐに訊きたいこと」

 間髪入れずに答えれば、ミラは観念したように抵抗をやめ、俺の言葉に従順となる。跳ねっかえりなのか素直なのか、本当に興味深い子供だ。

「君は……本当に、俺のことが嫌い?」

 ――まただ。俺はまた、ほかでもない自分自身にひどく驚かされている。往来のど真ん中でこんなにも女々しい言葉が出てくるなんて、いったい誰が予想できただろう。
 昨夜はあんなに格好つけて「いつか好きって言わせてみせる」なんて言ったくせに、ちょっと時間が経ったらこれだ。おのれの青さに嫌気がさして漏れそうになったため息を、既のところで飲み込んだ。
 しかし、そのため息を飲み込むや否や、それらの鬱屈した感情は驚くほどあっけなく姿を消してしまう。なぜなら、腕のなかにいたミラがまんざらでもないといった顔で俺に体を預けてきたからだ。
 歌劇の内容に感化されたのか、もしくはこの場に酔っているのか。真偽はわからないけれど、少なくともそれがマイナスな答えでないことだけは確かだった。

「きっ……昨日も言ったでしょ! きらいだもん、ずっと……っ」
「本当に?」
「ほんと! ほらもうっ、離して!」

 しかし、まんざらでもない顔をしているくせに、その口から出てきたのは手痛い拒絶の言葉だった。とはいえそれが俺の心に刺さることはなく、むしろ根拠も何もない、謎めいた確信が湧き上がるのみだ。
 ――どうやら、彼女は本気で俺のことを嫌っているわけではないらしい。
 昨夜はあんなに胸を締めつけた拒絶の言葉が、今だけはまったく痛くない。まるで仔猫にでもじゃれつかれたような不思議な感覚ばかりで、「きらい」というその言葉が不器用なラブコールに聞こえてくる始末だ。
 俺が固まっている隙にミラはするりと抜け出して、ずんずんと前を歩いていく。その背中は相変わらず華奢で小さなものだったが、この目にはどうにもいじらしく、かわいらしいものに見えた。
 俺は先立ってよりも幾分か明るい歩調でミラの背中を追いかける。ギャラリーたちはひそひそと顔を見あわせていたが、何かを察したらしい数人はどこか微笑ましげな視線を俺たちに向かって投げていた。なんとなく癪に障る気もするが、今は気分がいいので特別に見逃してやろうと思う。

「俺のこと大好きでかわいいね、ミラは」

 傍から見ればただの自意識過剰、もしくはトンチンカンな文句が出るようになったのは、きっとこの出来事がきっかけなのだろう。
 夕陽に染まるちいさな手のひらを繋ぎ止めながら、俺は安堵の笑みを浮かべたのだった。

 
2024/09/05