文章

拝啓 赤薔薇の貴公子様

 ――するり。滑るような音に続くのは、ぺたり、びしゃりと、何か粘度のあるものをなすったり、水をかき混ぜたりするような音。 それがいったい何を示しているのかは、ぼんやりと浮かぶ仄かな月明かりの下で作業に励むだけが知っていることであった。 彼女…

心がえがく君のこと

「セテス様、今日は何のお話を書いていらっしゃるんですか?」 書庫への道中、ふと半開きの扉が目に入ったのはいつもどおりの昼下がりのことだ。興味本位で中を覗いてみると険しい顔で執務机に向かうセテスがいて、はさらなる興味をむくむくと芽生えさせたの…

君の心が呼ぶほうへ

 歌が聞こえた気がした。 グロスタールの屋敷のなか、ローレンツは誘われるように足を動かす。人よりも上背のある彼は歩幅もそれなりに広いのであるが、けれども貴族らしい所作のおかけで決して下品な運びではない。此度はまるで惜しむように足を運ぶためか…

おおきくなったね

 結局、あれからあたしたちが祝言をあげることはなかった。別に関係が解消になったとかそういうわけではなく、戸惑いつづけるあたしに対してセキさんが「待つ」という選択をしてくれた、ただそれだけのことだ。 せっかちな性格のセキさんから出た「待つ」と…

充満する匂い

※ちょっとだけ背後注意 ---   おう、。ちっと疲れちまったからよ、そろそろ部屋で休まねえか? その誘い文句に導かれて、あたしはセキさんと二人、私室でひと息ついている。べつに何かがあったわけではなく、ただ二人で過ごす時間がほしかっただけだ…

名前を呼んで

 優しくおだやかなあの声で、名前を呼ばれるのが好きだった。 元々のあたしは、どうやら自分の名前が好きではないらしかった。記憶喪失ゆえに何の理由があってそうなったのかはいっさいわからないけれど、でも、おのれの名前に――今となってはほぼ唯一なく…

雨の音色はきみの足音

「なあ、セキ。あんた、あの子がこの集落にやってきた日のこと覚えてるかい?」 それは、時分によるそぞろ雨が、相も変わらずしとしとと降り注いでいた夕暮れのこと。 話しかけてきたのはヨネだった。彼女は相棒のゴンベをわしわしと撫でながら、窓の外にあ…