呼び声

『     』

 誰かに呼ばれている気がしていた。その声は、お母さんが死んでしまってから感じるようになったものだと思う。耳から聞こえる類いのものじゃなくて、もっと内側から、例えるなら頭の中に直接語りかけてくるような。
 一歩進めば、その声はひときわ強くなる。立ち止まれば、急かすように背を押された。うるさいと思ったことはまだない。誰かに話したこともないし、話せる相手もいなかったから。
 その声に導かれるように辿り着いたのがこの町――シアレンス。正確には、その近くにある有角人の集落だった。

「フワ。今日の調子はいかがですか? ……ああ、大分マシになってきましたね」

 力尽きた私を拾ったのは彼、オンドルファ。膨大な知識を持つ賢者であり、昔からよくモンスターを拾ってきていたって。
 私を拾おうとした人、手にかけようとした人は今まで星の数ほどいた。全員を覚えてはいないけど、今なら前者の厚意を踏みにじってしまった罪悪感を感じることができる。少しだけ、余裕ができたから。

「今日は少し遠くまで、散歩に行ってみましょうか」

 彼は人間じゃない。「有角人」という種族なんだって、いつかに誰かと話していた。姿形は人間によく似ているけれど、人間以上の寿命と額に生える角、エルフみたいにとがった耳がその証らしい。
 そしてこの集落には、有角人やドワーフという種族の他に、モンスターまでもが集落の一員として住み着いているの。彼らもここに来るまでの経緯は様々で、私と同じように誰かに傷つけられていたり、長老についていきたいと思っていたり、この場所が気に入っていたり。
 居心地がよかった。苦しみを分かち合えることが、なによりも嬉しかった。私の心は少しずつ、雪解けのように本来の形を取り戻そうとしていた。

「今度は夜にここまで来てみましょう。きっと、フワも気に入ってくれると思います」

 彼は私を「フワ」と呼ぶ。本当の名前は「グリシナ」だけど、私に名乗る術はないの。人間とモンスターの意志疎通は、思ったよりも困難みたい。
 だけど、私もこの名前が気に入っていたりする。オンドルファの優しい声で呼ばれるのは、思ったよりも心地よかったから。
 私は彼が好きだった。彼の瞳も、読み聞かせてくれる話も。彼の読んでくれる本が好きだった。彼の心が好きだった。それは恋慕の類いじゃなくて、お父さんに対するものだと思うの。
 私は彼に、「お父さん」を求めているのかもしれない。

「帰ったら――そうですね、なにか本を読んで差し上げましょうか」

 彼の本を通して、私は世界を知ることができたように思う。まだ難しい文字は読めないけれど、子供並みの識字は身につけたつもりでいる。
 本はすごい。ここにいるのに、遠くのなにかを知ることができる。私は本が好き。今だって、本の山に埋もれて、少しずつでも新しい知識を身につけたいと思うもの。
 叶うなら、ここにきてすぐのころ暴れに暴れてこの書斎をしっちゃかめっちゃかにしてしまった自分に頭突きをかましたいとも考えてしまうくらい。ここで過ごしていくうち、それほどまでに私の価値観は変わっていった。

「? おや、あれは……ああ、やっぱりマイスさんですね」

 そして最近になって、この集落に見慣れない顔が出入りするようになっていた。私と同じ、少し違った毛色のモンスター。金色の毛をしたモコモコで、確かマイスという名前。
 彼が普通のモコモコと違う点は、その毛色だけじゃないの。……彼は、人の言葉を話せる。言葉を持って、オンドルファと意志疎通が可能だった。
 少しだけ――ううん、すごく羨ましかった。私もマイスみたいに、オンドルファと話がしたい。人とモンスターの架け橋として、彼の役に立ちたかったの。

「それでは失礼します。フワちゃん、またね」

 にっこりと微笑みながら、マイスが私に手を振る。私はなんだか恥ずかしくて、オンドルファの後ろに隠れた。
 ……オンドルファは、いつもと違って少しだけ神妙な顔をしている。なんの話をしていたんだろう……?

「――知っていますか、フワ。彼は……マイスさんは、人間とモンスターのハーフだそうですよ」

 どくり。オンドルファの言葉に、私は心臓が止まりそうになった。人間と、モンスターのハーフ? 私以外にも、そんな存在がいたというの……?

「人間の姿とモンスターの姿、両方をお持ちなのだそうです。……不思議ですね、なぜか拒絶する気にはなりませんでした」

 まるで、昔からその存在を知っていたかのような気分ですよ――そう続けるオンドルファに、私の胸はぎゅうぎゅうと締めつけられる思いだった。
 当たり前だよ、オンドルファ。だって私がいるもの。こんなに近くに、ハーフがいるんだもの。

「……フワ? どうしました?」

 もしかしたら。一度くらいなら、私も人の姿になれるかもしれない。今まで一度もやったことはないけれど――今なら、できる気がする。

『      』

 ふ、と目を閉じる。その瞬間、声はひときわ強く響いた。けれどそれは私を責め立てるようなものじゃなくて、もっと優しく、まるで導いてくれているかのような。
 私は流れに逆らうことなく、声の赴くままありったけの力を込めた。

「ッ――――これは!」

 ふわりと体が軽くなる。目線も高くなったみたい。おそるおそる口を開くと、私の喉はぎこちなく「オンドルファ」と絞り出した。

「フワ……いや、あなたは――」
「オンドルファ!」

 考えるよりもさきに体が動く。私は彼に身を寄せていた。
 ずっとこうしてみたかった。人としてオンドルファと話して、関わって、触れ合って。彼を感じてみたかった。
 その夢が叶ったというこの奇跡に、涙が溢れて止まらない。

「……驚きました。あなたも人間とモンスターのハーフだったのですね」

 オンドルファはなにをどうすることもなく、ただ優しく背中を撫でてくれた。それはフワリの私にしてくれていたのと同じ、彼の温かさが伝わる行為。私は、これが本当に大好きなの。

「フワ――ではないですね。改めて、お名前を訊ねてもよろしいでしょうか」
「あ……えっとね。私はグリシナって言うの」

 そうして私は、彼にすべてを打ち明ける。どうしてここにいるのか、なんのために旅をしていたのか、目的が一体なんなのか。とても些細なことではあるけれど、オンドルファが母の死を悼むように目を伏せてくれたことが本当に嬉しかった。

「そう、ですか……ならやはり、必ずや成功させねばなりませんね」
「成功……?」
「ええ。最近、頻繁にマイスさんがこちらに出向いているでしょう」

 彼と画策していることがあるのです――にこりともにやりともとれる笑みを浮かべながら、オンドルファはそう言い放つ。
 仮に名づけるとするなら、「交流祭」とでも呼ぶべきもの。シアレンスの花を咲かせるために、シアレンスの住民と有角人たちの仲を修復させることを目的とした行事。凝り固まった誤解をといて、また昔のように異種族が手を取りあっていけたなら――そんな願いを込めて、今は長老を説得している最中らしい。

「この試みが成功したら、あなたの家族の情報もぐっと手に入れやすくなる筈です。あと少しの辛抱ですよ」
「……! うん! ありがとう!」

 まだ見ぬ父。まだ見ぬ弟。彼らにうんと近づけた気がして、私の胸ははち切れんばかりに躍っていたのだった。