新たなる旅立ち

 昨日までは元気だった。昨日までは健在だった。昨日まではちゃんと、歩いて、笑って、この頭をなでてくれた。
 けれどもう、今朝にそんなものはなかった。

 
  ◇◇◇
 

「お父さん……」

 目の前のお父さんは、もうぴくりとも動かない。……死んではいない、眠っているだけ。
 そう、目を覚まさないのだ。大声で呼んでも頬を叩いても体をゆさくっても、なんの反応もなかった。なにを言うでもなかった。
 まるで永遠の眠りについてしまったかのように、お父さんはここ数週間ずっと眠り続けていた。

「……まだ、目ぇ覚まさへんの?」

 ぽん、と優しく肩を叩いてくれたのはしののめさんだ。彼女もオレたち親子と同じく、旅から旅の根なし草なのだと。些細なことから付き合うようになり、少しだけ一緒に旅をしたこともあった。

「ウチ、なんか薬とってくる!」
「さくや! ……あきまへん」
「せやけど……」

 彼女の娘であるさくやは、オレと同年代で一番の仲良しだ。前の町に滞在していたとき、2人だけで森に入ってこっぴどく叱られたこともある。
 ……そう。オレたちは旅の中でよく出くわしていた。この広い世界を旅しているというのに、信じられないくらいの間隔でお互いに顔を合わせていたのだ。
 きっとさくやとオレだけじゃなくて、しののめさんとお父さんも同じことを考えていたのではないかと思う。

「もしかしてこれは、運命なのではないだろうか」と。そう思い始めた矢先のできごとだった。
「サンテモはん、元気だしてや。これあげるわ、ウチの宝物」
「さくや……」
「前の旅で拾ってん。ルビーやて」

 真っ赤に輝くそれを見ていると、不思議と心が落ち着いてくるのを感じる。……美しい。そう思った。

「なんやありましたらすぐ呼んでください。しばらくこの町におりますから」
「約束やで! ウチもすぐ来るからな!」

 2人の出ていった部屋は、不気味なくらいに静かだった。
 ……なぜだろう、不安はまるでない。むしろなにか、ぞくぞくと身体中を駆け巡るなにかまで感じてしまう。
 この、体の奥底から沸き上がる気持ちはなんだろうか。なにかがオレを呼ぶように胸を掻き立てさせ、じっとしてはいられない。オレは、ここにいるべきではないのかもしれない。もっとどこか、他に居場所が――

「、――――……」
「! お父さん!? お父さん!」
「……テモ…………」

 よく聞きなさい。
 かすれた声で、お父さんはそう言った。
 そしてオレは、自身がどうするべきかという指針を手に入れたのだった。

 
  ◇◇◇
 

「……もう、ええの?」
「うん。お別れはもう、済んだから」
「う……ぅう~~~~……」
「なっ――あんだよ、さくやが泣いてどうすんだよ!」

 海の見える丘がいい。そう言ったのは、オレのわがままだった。
 お父さんは亡くなった。オレにすべてを話して、最後に「幸せになりなさい」とだけ遺して眠るように生を手放した。

  ――よく聞きなさい。……探すんだ。お前の母と、お前の姉を。この世界のどこかに必ずいるから。黒い毛色に、淡い紫の瞳をしたフワリがいたら、きっとその子がお前の姉……グリシナだ――

 父の言葉をじっくりと反芻する。探さねばならない。まだ見ぬ母と姉を、この広い世界のどこかで。

「ほんなら行きましょか、テモはん」
「!」
「これから家族みたいに付き合うていくんやから、私らもそないに呼んでみようかな思て」
「あっ……う、ウチも!」

 身寄りのなくなったオレは、唯一の知人であるしののめさんの世話になることとなった。一か八かで持ち出した話だったが、「きりきり働いてもらいますえ」の一言とともに、案外あっさりと了承されたのだった。
 にこりと微笑むしののめさんに、自分の中にある「母親」の理想像、まだ見ぬ暖かさを見出だしてしまう。溢れそうになった涙を、なんとかこらえて笑う。

「シノさん、さく。これからよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
「おー!」