「交差」のあとくらい
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なんとなく、胸騒ぎがした。
否、それはともすると変化の予兆であったのかもしれない。うまく言語化することはできないが、それでも今からおのれの身に何かしらの刺激が訪れるであろうことを、レックスは静かに察知していた。それがひどく些細なもので、運命を揺るがすような大事でないことも。
セイレーン城で過ごす日々のなか、穏やかではあるが水面のごとき毎日に一石を投じるようなそれが今にもやってくるだろうと、半ば浮き足立っていたかもしれない。
だからこそ、研ぎ澄まされた彼の聴覚はしっかり拾っていたのである。あてがわれた私室に向かって、少々けたたましい足音が近づいてくることを。
「……レックス。ぼくだ」
しかし、扉の向こうから聞こえてきたのは足音とは裏腹にひどく静かな声だった。レックスは肩をすくめながら、声の主に入室をうながす。
確かめずともそれが誰なのかはわかっていた。長い付き合いのある親友の声を、よもや聞き間違えるはずもない。
「どうした、アゼル? ずいぶんご立腹じゃねえか」
「どうしたもこうしたもあるか! まったく、きみってやつは本当に――」
言いながら、アゼルは室内にずかずかと踏み込んできて、そのままレックスへと詰め寄ってくる。目線よりも少しばかり下にあるアゼルの顔は、彼にしては珍しく、あからさまに怒りを孕んでいた。
「なんでアグネにバラしたんだよ! ぼ、ぼくの……その……っ」
「うん? ……ああ、おまえがエーディン公女を好きって話か?」
「うっ――」
「俺のほうから進んで話したわけじゃない。聞かれたから答えただけさ。そもそも、アグネ本人がおまえの気持ちを察してるようだったからな」
そもそも、まさかきみとアグネがそこまで込み入った話をするほどの仲だったなんて――アゼルの深紅の瞳が、口よりも饒舌に言っている。
「べつに……天馬騎士団はおまえとしか親しくしちゃいけない、なんて決まりがあるわけでもないだろ」
セイレーン城で過ごすようになってからもう半年以上の月日が経つ。その決して短くはない期間、天馬騎士団と親しくなっていたのは何もアゼルだけじゃない、というだけの話だ。
アゼルほどの親密さはないが、レックスもアグネとはそれなりに親しくやっていた。顔を合わせればぽつぽつと話をするし、お互いの国について語り合ったこともある。この頃はその仲もひときわになり、雑談や世間話といった個人的な話まで交わすほどとなった。
そうして話題にあがったのが、レックスの無二の親友であるアゼルと――彼が不器用に隠している、エーディンへの恋心のことだった。
「迷惑行為を働いてるわけでもないし、恥ずかしがることもないさ。立場はどうあれ腐っても男女なんだ、恋愛感情のひとつやふたつは自然と抱くもんだぜ」
「ふたつも抱いちゃダメだろう! ……そ、それでアグネは何か、言ってた?」
「いや? しきりに何か考え込んでるようだったが……おまえの気持ちについては特に何も」
レックスの言葉に安心したのか、アゼルはもごもごと口を動かしながらも、それ以上文句を言ってくることはなかった。まだまだ納得はいっていないようであるが、エーディンのこととなると途端に慌てふためくすがたは、やはり何度見ても可愛げに溢れている。
――しかし、だからこそ危うく思えるのも確かだ。公爵家に身を置く人間がこんなにも人らしくあっては、いつの日か、まるで取り返しがつかなくなるほどの傷を負う羽目になるかもしれない。感受性豊かな親友のことを、レックスはいつも案じていた。
「……べつに俺は、何の理由もなく教えたわけじゃないんだぜ」
つい、口からこぼれ落ちた言葉。耳を澄ましても聞きこぼしそうなくらいの微かな声量をしたそれは、やはり目の前のアゼルをしても、とうとう拾われることはなかった。
べつに、アゼルをからかうためだけに口にしたわけじゃない。人の恋路を掻き乱すような真似はしたくないし、そういったことに他人がとやかく言うべきではないと思っている。
しかし、魔が差したと言えばそうなのかもしれない。……わかっていたのだ。あの天馬騎士の胸の内が。
誰にでも朗らかに接する傍ら、アゼルに対するときだけその瞳に違う色が乗っていることなんて。彼と近しい場所にいるレックスにとっては、簡単に察せてしまうことだった。
――もう少し見守らせてもらうかな。親友として、つかず離れずの一番良い距離感で。
未だ頭を悩ませているアゼルを眺めながら、レックスはおのれの立ち位置というものを再確認するのだった。たとえ二人が――否、三人がどう転ぼうとも、受け入れてやるとだけ誓って。
2022/11/11