そうしてぼくらは蓋をした

 もちろん、そのときのアゼルにシグルドたちの話を盗み聞きするつもりなんてなかった。たまたま部屋の前を通りかかった際、つい、耳に入ってしまったのである。
 彼らが言っていたのは、アルヴィスが当主になってすぐのヴェルトマー家についてだった。父が――先代のヴェルトマー公ヴィクトルが亡くなった直後、女癖の悪かったらしい彼が抱えていた愛人やその子どもたちを、アルヴィスはおしなべて、公子の立場から追いやったのだと。
 そうしてあの家に残ることができた女性は、アルヴィスがとても懐いていた女性、たった一人。彼の母シギュンの下女と、その子供であるアゼルのみだったというのだ。

 そういえば――ヴェルトマー家の家臣のなかに、アゼルに対して濁った目を向けてくる者がいたことを思い出す。羨望のような憎しみのような、暗く深く混ざりあったドドメの色の視線。その正体が何なのかアゼルにはついぞわからないままだったけれど、今この瞬間、すべてを察する。
 そうして、アゼルの脳は、考えは。まるで地獄に引きずられるかのごとく、みるみるうちに悪いほうへと引っ張られていった。

(ま……まさか、アグネも――)

 こみ上げる吐き気をなんとか抑えながら、アゼルは真っ暗になりそうな視界をなんとか瞬きで追いやって、腕のなかにいるアグネを思った。……思い出したのだ、彼女が言っていたことを。幼い頃、グランベルの公爵のもとにいたという過去を――
 愛人たちがヴェルトマー家から追放された時期とアグネの年齢を重ね合わせてみれば、すべての辻褄があってしまう。……途端、いよいよ足元から体が冷えきるのを感じた。血の気がさっと引いて、今度こそ意識を手放してしまいそうだ。

「あ……アゼル? どうしたの……?」

 たった今自覚が芽生えたばかりなのに。彼女のことを特別に想っていると、これから先の人生を共に歩み、ずっと守っていきたいと誓ったばかりなのに。どうして、どうしてこんなにも残酷な事実が重たくのしかかるのか――
 アゼルの顔が真っ青になったことを察したのだろう、アグネはおそるおそる体を離してこちらを覗き込んでくる。
 ……告げるべきなのだろうか。確証のない、疑惑として浮かび上がったばかりの自分たちの関係を。今にも崩れそうなくらい傷つききったこの女の子に、すべて伝えてもいいものだろうか?
 もごもごと開閉を繰り返すアゼルの唇に、アグネから怪訝な目が向かってくる。――きっと彼女は待っているのだ。アゼルがこの口ですべてを明かしてくれることを。
 迷いが晴れたわけではないが、騙すような真似もできない。アゼルは覚悟を決めて、ゆっくりとだが口を開いた。

「きみは……言ったね。自分の母が、かつてグランベルの公爵の元にいたって」
「……ええ」
「落ちついて聞いてほしい。……もしかすると、その公爵はぼくの父かもしれない。きみのお母さんは、グランベル王国の六公爵家のひとつ、ヴェルトマー家にいたかもしれないんだ……!」

 まるで鏡かと見紛うほど、同じようにアグネの顔も蒼白に染まりきってしまう。アゼルの腕に添えられたいる手は小さく震えていて、今度こそ壊れてしまいそうなくらい弱々しいものに思えた。
 乱れた呼吸の合間、アグネはしきりに「うそだ」と繰り返している。アゼル自身も同じ気持ちであったが、そうであるなら納得のいくところもあるのだ。
 たとえば、アグネにだぶついた小火のような幻。かつてアルヴィスを前にしていたときに見ていたあれも、もしかすると彼女との縁を直感で感じ取っていたからなのかもしれない。
 他には――そう、初めてアグネと会ったときに感じた衝撃もそうだ。幼い頃にヴェルトマー家の書庫の奥に隠されていた本のなか、その事実を裏づけるようなことが書かれていたのを思い出す。
 生き別れの兄弟姉妹は、まるで運命的なほどに惹かれ合ってしまうのだと――件の書物には、しっかりそう書かれていた。

「もちろん確証なんて微塵もないよ。状況証拠ばかりだし、きみのなかにヴェルトマー家の血が流れているかどうかを調べる術もありはしない。それこそ高名な占い師に頼むとか、それくらいしか――」
「やめて!!」

 アゼルの言葉を遮るように、ひどく声を荒らげるアグネ。泣き腫らして真っ赤になった瞳は血の色が浮かび上がっているようで、このうえなく痛々しい。
 アグネは両手で耳をふさいでいる。聞きたくない、と次ぐ声はやはり小さくて、ともすれば聞き逃してしまいそうだ。

「あたし……知りたくない。あたしはあたし、それでいいでしょう? どこの公爵の娘だろうと、結局あたしはあたしでしかないんだから」
「でも――」
「嫌! やめて……やめてよ。だってあたし、あなたのことを愛してしまったのよ」

 アグネは、今度こそ泣き崩れてしまった。その場に崩れ落ちる彼女を受け止めることができず、アゼルは呆然と立ち尽くす。
 眼下でぐちゃぐちゃの慟哭を吐き出すアグネは、まるで人の世に揉みくちゃにされる迷子のようだ。

「もしもあなたが本当に異母弟だったとして、あたし、そのことに耐えられそうにないの。姉弟で愛し合うなんて、そんなことあってはいけないじゃない」
「アグネ……」
「だからあたしは知りたくない。知らなくていいことなんてこの世には数え切れないほどあるもの。……確証がないって言ったのはあなたのほうでしょう? ――」

 涙ながらに嘆願するアグネの言葉を、いったいどんな人間ならば撥ねつけることができるのか。
 アゼルは彼女に寄り添うようにして座り込み、振り乱された草芽の髪を優しくかきあげ、みっともない泣き顔を見る。唇を噛みしめる彼女は涙をこらえながらアゼルのことを見つめていて、安心させるように柔らかく微笑んでやった。

「……わかったよ。金輪際、このことについて触れることは控える。考えることもしないように努めるから」
「うん……」
「ぼくだって同じ気持ちなんだ。……きみのことを愛してる。だから、きみを哀しませるような真似は絶対にしたくない」
「え……でも、あなたはずっとエーディンのことが」
「そう、だね。ぼく自身も不思議なんだ。あんなにもエーディンのことを大切に想っていたはずなのに、気づけばきみの存在がひどく大きくなっていて――」

 アゼルは深く微笑んだまま、胸の奥で燃え盛っていたアグネへの想いを紡ぐ。ありのままを、ひたすら素直に伝えるために。

「血の繋がりなんて関係ない……とは言い切れないけど、ぼくはぼくなりに、精いっぱいきみのことを大切にする。きっと幸せにしてみせるよ。……だから、改めて言わせてくれ」
「あ――」
「ぼくと――ぼくたちと一緒に来てほしい。無事にグランベルに戻れるかはわからないけれど、きっときみを守ってみせる」

 何度目かもわからないアグネの涙は、言葉よりも饒舌にその心中を表している。
 全身で思い切り抱きついてきた彼女を受け止めながら、アゼルはこのか弱くも朗らかな恋人を必ずや守ってみせると、祖先であり十二聖戦士が一人でもあるファラに、かたく誓ったのであった。

 果たして、その誓いが守られたかどうかは――結局のところ、神のみぞ知るところである。

 
これで終わりです。ありがとうございました
2022/11/07