ダグ、と呼ばれてふと我に返る。
手元にあった報告書をぱたりと閉じ、声のほうを振り向けばそこにいたのは家主であるブロッサムだった。
相も変わらず穏やかな笑みをたたえるそのすがたに、ちくりと罪悪感が刺激されてほんの一瞬だけ顔をしかめる。
――いけない。こんなところを見せては、いったい誰にバレるかわかったもんじゃない。
ふるふると首を振っては気を引き締め、葛藤を振り払うように笑みを描く。
どうしたばあさン。努めて冷静に返事をすれば、ブロッサムはしわくちゃの目尻を少しだけ垂れ下がらせながら口を開いた。
「ブーケが戻ってこないんだよ」
「はァ!? ……ったく、まーたヨクミール森で迷子になってんのかヨ」
「頼めるかい?」
「ばあさんに行かせるわけにはいかねーシ……」
渋々、といった具合にダグはゆるりと立ち上がる。
モンスターに絡まれていたら事だ。愛用の片手剣を携え、ついでにあまりの回復のポットも持っていこう。
怪我なんてされたまま帰ってきたら、誰に何を言われるかわからない。
ぶるりと身を震わせながら、ダグは雑貨屋の2階を降りてゆく。
行ってくル、留守のあいだ無理すんなよナ、あいつは無事に連れ帰ってくるからヨ。
そう言えば、ブロッサムは安心したように目元を緩ませて笑ってくれた。
とん、とん、階段を降りる規則正しい足音を、ブロッサムは耳をすませて聞いていた。
程なくして窓から外を見渡せば、ちょうど駆け足で平原へと向かうダグのすがたが目に入る。
「なんだ、やっぱり心配だったんじゃないか」
それはそうだ、あの子はとても優しい子。
ここに来てから共に暮らしている同居人、しかもか弱い女の子が森から帰って来ないなんて事案に、あの子がじっとしていられるわけもなく。
やがて見えなくなった背中を思いながら、ブロッサムは手近な椅子へ腰をおろす。
軋んでいたこの古椅子を直してくれたのはダグ。
切れかけていた電球を取り替えてくれたのも、りんごを採ってきてくれたのも、品出しを手伝ってくれたのも、配達を変わってくれたのも。
そして、そのサポートとしてずっとついてまわっていたのがブーケだった。
ブーケ――それは、セルフィアに来てからみるみるうちに元気を取り戻した孫。
体の弱かったあの子には都会の冷めた空気があわず、療養のために祖母である自分のもとへやってきた。
足でまといになっちゃったらごめんなさい、そう言っていた彼女も、今はひとりで紅葉古道へ出向くほど健康な体になっている。
先日は「でっかいコケホッホー倒してきた!」なんて、巨鳥のトサカを片手に帰ってきただろうか。
自分よりもダグのほうが顔を青くしていたりなんかして、ついつい思い出し笑いが漏れる。
――そういえば、ダグはどうしてブーケがヨクミール森にいるとわかったのだろう?
あの子の行動力ならもっと遠くへ向かっていてもおかしくはないのに、なるほどこれが野生の勘というやつか、それとも……
「あたしよりも、ダグのほうがあの子のことをわかってるみたいだねえ」
ちょっと淋しい気もするけど、それが時代ってやつさね。
誰にあてるでもないブロッサムの独り言は、とうとう誰の耳にも届くことはなかった。
2017/06/28