――山が泣いている。そんなことを言い出したのは、曇天に目を向けて険しい顔をするヨネだった。
彼女の勘は当たるのだ。たとえば彼女が「胸騒ぎがする」と言えばつまみ食いがバレたし、「風邪引くよ」と言われた次の日はだいたい寝込む羽目になった。それが如何に正確で信頼できるものなのかは、彼女と長く「姉弟」をやっているセキにはよくわかっていた。
だから、きっと今日も何かがある。何か、とてつもないことが起ころうとしている。そんな畏怖にも似た感覚をおぼえながら、セキはヨネとともに、コンゴウ団の集落の裏にあるコンゴウの里山までやってきていた。
歩くたびに雲行きは怪しくなって、気づけばはらはらと雨が降り始めている。雨粒のせいで機嫌を悪くするサイホーンの目をかいくぐりながら進み、やがてぬかるんできた足場を省みて、そろそろ帰るべきではないかと提案しようとしたときのことだった。
「――? おい、誰かいるのか?」
木々の隙間、雨粒の向こうにぼんやりとした人影を見つけたのだ。
小柄で細っこいそれはこのあたりにいるポケモンの輪郭とは似つかないものだし、微塵も敵意を感じないことから、おそらく幼い子供なのではないかと推察する。
警戒は解かないまま、一歩、また一歩とその人影に近づくうち、それがやけに珍妙で、奇怪で、ここいらでは見たこともないような装束を身に着けていることがわかった。
「あ――」
振り返って、刹那。セキの見立てどおりまだまだ幼げな様子である少女は、コンゴウ団でも、シンジュ団でもまったく見たことがないような顔立ちで、そして。
「ここ……どこ、ですか?」
ひどく虚ろな、すべてに怯えた目をしていた。
◇◇◇
「――つまり、どうやってここに来たのかも、どうしてあそこに立っていたのかも、まったく覚えてないってことだよね」
少女は、名前を「ヨヒラ」と言った。何を問うてもまともな返事をしなかった彼女がそれを口にしたのは、とりあえず一旦連れて帰ろうと集落への帰路を進んでいる最中のことだった。
とはいえその自己紹介もひどく曖昧なものであり、「多分そうだと思う」という、自己ですら迷子になっているような、危うげな物言いであった。
「……ごめんなさい。あたし、なんにもわからなくて」
「ああ、気にしなくていいんだよ。シンジュ団にも似たようなやつはいるし、案外よくあることなのかもしれないからね」
「シンジュ団……?」
「おっと、たしかにそこから説明しなきゃなんなかったよね。シンジュ団っていうのは――」
彼女は出自も身なりも何もかもが奇妙で謎に包まれているが、ひときわ目立つことがあるとすればそれは、ポケモンたちから向けられている異様なまでの敵意、もしくは嫌悪だろうか。
ここいらにいる野生ポケモンは気性の激しいやつが多いが、それにしたって過剰ではないか。さっきなんて数匹のパラスが一目散に駆け寄ってきて、ヨネがアヤシシを呼んでくれなければどうなっていたかわからない。往路と比べて数段警戒しながら帰る道は、歩き慣れているはずなのにひどく険しくて、困難だ。
リーフィアとゴンベも彼女を意識してやけにそわそわしているし、どうやら潜在的にポケモンに嫌われてしまう体質のようだ。
そんな人間があんな場所に突っ立っていて、よくも無事でいられたものだが――これもまた、シンオウさまのご加護なのだろうか。
「――ちょいと、セキ。そんなに黙りこくってないで、何か言ってやったらどうだい? 怯えてるじゃないか」
拙い頭を働かせていると、後方のヨネからお叱りを受けてしまった。見ると、たしかに少女は――ヨヒラは不安げな瞳でじっとこちらを見ていて、ほんの少し胸が痛む。
垂れ下がったままの眉毛をなおさら情けないふうにして、ヨヒラは再び「ごめんなさい」と目を伏せた。
「謝る必要なんかねえさ――ああ、むしろ悪いのはオレのほうよ。おめえの名前についてちょっと考えてたもんでつい、な」
「名前……?」
「おう。ここいらではあんまり見ねえが、『ヨヒラ』ってのはちょうど今みたいな、雨の降る時期に蕾をつける花らしいじゃねえか」
どしゃ降りと言って相違ない空を見上げて、セキはあの花のことを思い出す。
紅蓮の湿地と呼ばれるこのあたりではあまり見ることのない花だが、趣のあるそれを好む人は意外と多く、行商人や外の人間に枝や苗をもらってくると、たいそう喜ばれたものだ。
もっとも、土壌が悪いのか気候のせいなのか、集落の周辺ではすぐに元気をなくしてしまうのだが――
「オレは好きだぜ。あの花を見ると、月日の経過や季節の移ろいを感じられるからな」
言うと、ヨヒラは潤んだ瞳を数度しばたたかせたのち、萌ゆるようにほろりと笑った。
2024/01/24 加筆修正
2022/03/03