夜露とともに綻ぶ花よ

 びしょびしょの幼子は依然として不安そうな顔をしていたが、きょろきょろとあたりを見まわしながらも、おとなしくヨネの後ろについてきた。
 家のなかに彼女を招き入れ、手近なところにあった手ぬぐいを渡す。日用品の使い方は体が覚えているようで、びしょ濡れの頭を丁寧に拭い、服についた水滴をはらっていた。
 ――それにしても、ずいぶん珍妙な格好だ。ここいらではついぞ見たことがないそれは着物のようでもないし、どちらかというとヒナツの好みそうな造りであるだろうか。膝をさらけ出す裾はひらひらと人を煽るようで、分別のない男に捕まっていたら大変なことになっていたかもしれないとすら思う。そんな人間、この集落には存在しないと信じたいが……
 とりとめのない考えを断ち切って、ヨネは玄関で立ち尽くしたままの彼女に手招きし、風呂場まで連れて行ってやる。湯気の立ちのぼる浴槽は見るだけでちょうどいい温度に保たれていることがわかり、手を突っ込んで確かめる必要もなかった。

「雨のなか出かけたからね。帰ったらすぐ入れるよう、マニューラに沸かしておいてもらったのさ。ああ、マニューラっていうのはあたしの家族なんだけど」
「えっと――」
「先にお入り。あたしはあとでも大丈夫だから」

 でも、と言いかけたヨヒラの口を人差し指で塞いでやる。少しだけ面食らったような彼女はひたすら申し訳なさそうな顔をしていたが、脱衣所に置き去りにすることで断れなくしてやった。
 戸を閉めて作業をしている最中、ひかえめな「ありがとうございます」の一言が聞こえてきたので、ヨネは満足げに笑ってから部屋に着替えを取りに行く。風呂を沸かしてくれた功労者のマニューラにはおやつのきのみを分けてやり、寝台の調子を整えながらヨヒラが出てくるのを待った。
 マニューラは冷たいところを好むポケモンだが、意外と世話焼きで働き者な面もあるようで、こうしてお風呂を沸かしてくれたり、するどいツメを活かして料理を手伝ってくれたりする。まだまだ幼くつまみ食いの絶えないゴンベと比べ、いくらかは落ちついた性質なのだ。
 とはいえ、今日は何やらいやにそわついているというか、どこか落ちつかなそうにうろうろと辺りを歩きまわっていたが……ご褒美のきのみを口に入れて落ちついたのだろうか、ついさっきお気に入りの寝床に入って、体を丸め休んでいた。
 寝台や細かい備品を確認し終わった頃。程なくして出てきたヨヒラは、さっきよりもいくらか血色のいい顔になっていた。チェリンボのように火照った頬に触れ、きちんと芯から温まっていることも確認する。

「うん、うん。いい感じにあったまったみたいだね。この期に及んでもまだ遠慮して、つめたーい体のまま出てくるなんてことがあったらどうしようかと思ったよ」
「あ――」
「着替えも問題なくてよかったよね。あたしのお下がりで申し訳ないけど、大切に着てたからそこまで傷んではいないはずだよ」

 いうと、ヨヒラは少しだけ戸惑ったような、照れくさそうな顔で問うてくる。どうしてそこまでしてくれるのか、と。

「あたし、いきなりやってきて、でも、何にもわかんなくて……きっと、これからはもっとたくさん迷惑や面倒をかけると思うんです。それなのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
「『どうして』か……うーん、そいつぁ難しい問題だよね」

 単刀直入に言うなら「性分」もしくは「慣れ」でしかない。ヨネは六人兄弟の二人目で、上にはリングマ、下にはセキといった、人もポケモンも入り混じった家族とともに大きくなった。
 ひと癖もふた癖もある兄弟と一緒に過ごすうち、人よりも世話焼きというか、平均よりは面倒みの良い人間に育ったのだろう。思えば、怪我をしたポケモンを保護したり、泣いている子供をあやしたりなど、昔から何かと世話を焼くことが多かった。
 そこにコンゴウ団の教えが加わり、「あらゆるものを友とせよ」という言葉に従って、目の前にいた記憶喪失の少女ですらも友のように、身内も同然の存在として扱っているだけだ。

「この集落では色んな人に助けてもらいながら大きくなったからさ。そのぶん、あたしも困っている人を助けようと思うようになったというか」
「――」
「ま、それがキャプテンである人間の務めでもあるよね。……ああ、キャプテンってのはまたあとで詳しく説明するけど、とにかくあたしは人よりもしゃんとして、指針となるような人間でいたいわけさ」

 刹那、ヨヒラが何か言いたげにもごもごと唇を動かした。言葉を選んでいるのか否か、それが声というかたちを持つまで待っていようとしたのだが――

「――っくしゅ、」

 その姿勢も、冷えた体の震えとくしゃみがうまい具合に邪魔してくれる。
 悪いね、と断りを入れると、ヨヒラはふるふると首を振って小さく笑った。

「あたしが先にいただいちゃったから……ヨネさんもはやく、温まってきてください。そのあとちゃんとお話できるよう、色々、整理しておくので」

 
  ◇◇◇
 

 ヨネが風呂から出てきた頃、ヨヒラは寝台のうえで膝を抱えていた。
 ある種の防衛本能がそうさせるのか、小さく丸まった背中はいやに庇護欲をそそり、今にも抱きついて撫でくりまわしてやりたくなる。すべてを肯定して、受け入れて、不安の種を根こそぎつみ取ってやりたいとすら思ってしまうような、独特の空気をまとっていた。
 とはいえ、初対面の相手にそんなことをされてもきっと戸惑うばかりだろうから――湧き上がるような衝動を抑え、ヨネはゆっくりとヨヒラに近づき、その隣に腰を下ろす。
 ヨネの気配に気づいていなかったのだろうか、ヨヒラは細い肩を大きく跳ねさせて振り返った。

「あ……お、おかえりなさい。あの、お湯、汚したりしてませんでしたか? 一応、ゴミとか掬ったりはしたんですけど」
「うん? ……ああ、そこまで気を遣わなくてもいいのに。大丈夫さ、まるで沸かしたばっかりみたいに綺麗だったよ」

 安堵の表情を浮かべるヨヒラは、帰路で見せたときと同じく、綻ぶように微笑んだ。
 その顔がやけに愛おしく見えて、思わずその丸い頭を撫でる。同性であることを盾にしたヨネの行動は、案の定不快感をあたえるものではなかったようで、ヨヒラは大人しくされるがままとなっていた。

「――あ、さん、みたい」
「え?」
「あっ……え、ええと。あの――」

 大丈夫だよ、とやさしく伝えてやれば、ヨヒラは彷徨わせていた視線をゆっくりとヨネの瞳まで戻し、意を決したように口を開く。

「その……さっきも、思ったんです。ヨネさん、おかあさんとか、おねえちゃんみたいだなって」
「ああ……まあ、そうだね。下に四人くらい弟や妹がいるから、お姉ちゃんは間違っちゃいないさ。でも、お母さんなんていわれたのは初めてかもな」
「あ、ご、ごめんなさい! いや、でしたか――」
「まさか。そんなことは一言も言ってないよね」

 安心しな、と再びその丸い頭を撫でてやると、こちらも再び大人しくなり――そして、予想外にも遠慮がちに、ヨネに体を預けてきたのだった。
 それはまるで、傷だらけで警戒心丸出しのポケモンが懐いてくれたときのような、ある種の安堵感すらおぼえる様子である。かつて大暴れしていたズバットのことを思い返しつつ、華奢で脆そうな肩を抱いて、丸い頭に頬を寄せた。

「……じゃあ、これから先あんたの身寄りや、大切な人が見つかるまで。あたしが、あんたのお母さん兼お姉ちゃんになってやろうかな」
「いいんですか……?」
「もちろん。それまでこの家は好きに使ってくれていいよ」

 あたしもなんとなく気分がいいんだ。
 そう言うと、ヨヒラは頬を花の色に染めて、むず痒そうに笑ってみせた。

 
2024/01/24 加筆修正
2022/04/04