やわらに震える

 なんとなく、心が浮つくような気がする。足取りがふわふわと跳ねて、世界がどこかキラキラして見えて。花屋で花束のひとつでも買ってやろうかと思う程度には、いささか今日のぼくは浮かれているようだった。
 彼女が――マリィが喜ぶのなら、と一瞬本気で花束を買おうかとも思ったが、しかし今日の行き先を思って断念した。邪魔になってしまっては忍びないからだ。
 ぼくは、これからマリィとデートに出かける。先日彼女のほうからお誘いをもらって、お互いの予定をすり合わせた結果の今日だ。幸いなことに本日は雲ひとつないくらいの快晴で、いわゆるお出かけ日和と言って相違ない天候である。寒冷と言われるガラル地方においてはずいぶん暖かく、周りを見るとワンパチやモンメンなど、ポケモンたちもいくらか過ごしやすそうにそのあたりを走りまわっていた。
 ひどく、おだやかな光景だ。ブラッシータウンの静かな景観は、ターフタウン出身のぼくによく馴染む気がした。

「ラベンダーさん……っ! ご、ごめんなさい、遅くなって――」

 ぼくが駅前でぼうっとしていると、やがてかわいらしい足音とともに、聞き慣れた呼び声が飛んでくる。
 声のしたほうへ振り向けば、そこにいたのは予想通りの――否、まるで見たことがないような、常とはガラッと雰囲気を変えたマリィだった。
 いつもツインテールにしている髪の毛をおろして、甘い色のジャケットと、ふわふわのワンピースを着て。世界で一番かわいらしいと言っても過言ではない女の子が、ぼくの目の前に立っている。
 ぼくは、思わず言葉を失って――けれども、考えるよりも先に口から賛辞をあふれさせた。飾り気も建前もない、心からの言葉だ。

「……マリィ。今日はひときわ、かわいいね」

 素直な感想はしたたかにマリィの心を揺らしたらしく、彼女はぽっと頬を赤らめてうつむく。
 ――眩暈がした。こんなにも愛らしい少女がそのあたりを無防備に彷徨いているだなんて、下卑た目を向けられる前にいっそ閉じ込めてしまいたいとすら思う。ぼくの過激な考えなど知る由もないマリィは、依然としてうつむいたまま、迷うようにまつ毛を震わせていたが。

「あ……あの。ほんとに……?」
「え?」
「あたしのこと、かわいいって。ほんと?」

 もじ、もじ。指先を遊ばせながら言うマリィはひどくいじらしくて、人目も倫理もなければ今すぐ抱きしめていたかもしれない。彼女の足元にいるモルペコも主人につられてもじもじとしていて、その愛らしさに笑ってしまった。
 反面、少しだけ胸がざわついたのはなぜか――出処のわからない感情を突き止めるため、ぼくはおのれの胸に手を当てながら考える。
 ――ちゃんと本気で、かわいいって言ったのにな。ぼくとしては素直な気持ちを吐いたつもりだったのだけれど、もしかすると信用がないのだろうか? 日頃の行いという言葉が脳裏をよぎり、柄にもなく少し不安になったのかもしれない。
 そこまで考えて、自分に「不安」だなんて可愛らしい感情が残っていたことに驚いた。ネズといい、マリィといい、この兄妹はいつだって、ぼくがついぞ感じたことのないような思いを教えてくれる。
 人生も、情緒も、ある種の人間らしさでさえも。ぼくにとってのそれらはきっと、他でもないこの兄妹の隣にあるものだ。
 ――なんて、考え込むのはここまでにしよう。ぼくが黙りこくったせいで、今度はマリィのほうが不安になってしまうだろうから。ぼくはいつもどおりの笑みを頬に貼りつけ、未だ遊び続けているマリィの指先に触れた。

「ッ……ラベンダー、さん……?」

 刹那、マリィは弾かれたように顔を上げる。普段あまり表情が豊かなほうではないのに、くんと眉を垂れ下がらせて、ひどく不安げな……けれども、期待に満ちたような顔をしていた。
 なんとなく潤んでいて、今にも泣きそうに見えるアイスブルーの瞳。それはぼくの嗜虐心と、彼女への愛情や執着心を強く刺激するもので――

「……かわいいよ。マリィは、世界で一番かわいい」

 その響きは、どこか見よう見まねでもあるけれど。
 ぼくはネズが歌うときのように心を込めて、自分の気持ちを乗せた言葉を吐く。マリィが世界で一番かわいい、それは彼女に出会ったあの日からずっと揺るがない事実だ。たとえ天地がひっくり返ったとしても、ぼくにとっての「一番かわいい」がマリィであることは絶対に変わらない、そんな確信がぼくにはある。
 その想いをありったけ詰めたぼくの言葉に、マリィはなおさら頬を赤らめて……そして、この広大なガラルの誰にも負けない、花が咲くような笑顔を浮かべた。
 また、胸がざわついた。今度はおそらく……そう、この胸をときめかせたせいだ。人を好きになるとこんなふうになるんだと、いつしかネズが歌っていた。二枚目のアルバムに収録されているバラードの歌詞だっただろうか? ああ、あの歌、また聞きたくなってきたな。
 ネズや彼の歌のことを考えていたらなんとなく落ちついてきたので、ぼくは気を取り直して、マリィにしっかりと向き直った。

「えっと……じゃあ、行こうか? ぼーっとしてたら、遊ぶ時間がなくなってしまうね」
「うん……っ!」

 彼女のちいさな手を引いて、ブラッシータウンの駅から電車に乗り込む。
 行き先はシュートシティ。最近そこそこ大きな遊園地ができたらしく、開演直後にマリィがいつか行ってみたいと言っていたのを覚えていたので、すんなりと此度のデート先に決まった。
 チケットはネズが口を利いてくれたおかげで、わりかし簡単に手に入れることができた。マリィの休みに関しても、むしろジムトレーナーのほうからたまには休めと言いだしたらしい。
 トントン拍子に事が運ぶ。順風満帆とはまさにこのことだろうか、しかし、それらすべては別にぼくのもたらしたものなどではなくて、ひとえに彼らの人柄や人望のなせる技だろう。
 ほんとうに、ひどく真っ当で眩しい兄妹だ。眼下にあるマリィの横顔を前に、ぼくはなぜか光が目に刺さった気がして、ほんの一瞬だけ目を眇めた。

 
2022/04/11