「そうか、ユウキはさすがだな。母さんに心配をかけたことだけはいただけないが――」
「もう、パパったら! でも、無事に帰ってきてくれて本当によかったわ。テレビであなたの姿を見たときは、本当に気が気じゃなかったけどね? あなたの元気な顔を見たら、そんなの全部吹っ飛んじゃった!」
一階のリビングから聞こえる談笑があたしの耳をつつくたび、あたしはあたしのお腹に溜まる冷たい鉛を実感する。ぽとり、ぽとり、それはいくつも落ちてはとろけ、やがてあたしのすべてを蝕んでいってしまうのだろう。
「おや……そういえばチイロは? 戻っているはずだろう?」
「疲れたみたいでもう休んでるわ。あの子だってたくさん頑張ってたのよ~、マグマ団の子と揉めたり協力したりしたって。ねえ、ユウキ?」
――やめて。もう、あたしのことなんかほっといて。叫びは声にならないまま、ただこの喉の奥でくすぶっているだけだ。
「どうせなら、二人揃ってお疲れ会をしたかったんだけどなあ」
「今日くらいそっとしておいてあげましょ。あ、そうだわ。ママね、ユウキにちょっと聞きたいことがあったんだけど――」
それきり、あたしの耳にみんなの声が届くことはなかった。耐えきれなくて、両の耳をすっかり塞いでしまったからだ。あたしは逃げるように柔らかくも冷たい布団に潜り込み、すべてを拒絶しようとする。
階下とは打って変わって、あたしの部屋はしんと静まり返っていた。締め切ったカーテン、真っ暗な世界、散らばったぬいぐるみたち。すぐ近くにあるのは、整理もしてないウエストポーチとこぼれたモンスターボールだ。
……みんな窮屈にしてるかな。ごめんねとは思いつつも、今のあたしに誰かを気遣う余裕なんてなかった。心のなかで無意味な謝罪をしながら、あたしは苛立ち混じりに寝返りを打つ。
目を閉じたいのに、そうするのは怖かった。まぶたの裏に今日の出来事が――真っ赤に染まるマグマの欠片が、強く焼きついているからだ。
あたしの心を蝕むのは、マグマ団とアクア団という、このホウエン地方に巣食う二大巨悪が起こした惨劇。広大な地方を、否、この星すべてを食らうともしれない未曾有の恐怖を、あたしたちは体験した。超古代ポケモンが目覚めただけでも簡単に壊れそうになっていたのに、あれがゲンシカイキを果たして思うままに暴れてしまえば、この世界はいったいどんな結末を迎える羽目になっていたのか――考えるだけで恐ろしい。
けれど、世界の危機が訪れるときには必ず救いの芽があるもので、今回だって例にもれず、そんな破滅的な未来を打ち破った一人の若きヒーローがいた。他でもないあたしの片割れ、双子の兄であるユウキだ。ユウキは壊滅的状況にもまったくひるむことなく、ひたすらまっすぐ懸命に、すべてに立ち向かっていった。
――本当に、全然つくりが違うんだな。あたしはおのれの不甲斐なさに視界を滲ませながら、苦い思い出からの逃避を続ける。
思い返せば、ユウキは昔から何もかもに秀でていた。運動も勉強も一度だって勝てなかったし、パパもママも、友だちも、近所の人もオダマキ博士もハルカも、みんなみんなあたしじゃなくてユウキのことを褒めちぎる。あたしはただのついでで、二番目で、抱き合わせのおまけでしかない。まずはみんなユウキから。「お兄ちゃんだから」なんて建前なんかじゃ隠せないくらい、ユウキにはみんなに愛されて求められる「何か」があった。
あたしは、それが悔しかった。いつかユウキを越えたいと思ってた。今は無理でももっともっと大人になれば、あたしがいっぱい頑張っていけば、いつか絶対ユウキを超えられる日が来る――そんな日を、ずっと、ずーっと夢見てた。
けれど。
「やっぱり、あたしには無理だったんだよ……」
他でもない今日という日に、あたしはすべてを察してしまった。ルネシティの中央部、目覚めのほこらへ向かうユウキの背中を見ながら、そんなものはただの幻想だと、誰に言われるでもなく確信を抱いてしまったのだ。
だって、どう考えてもおかしい。あそこに広かっていたのはひどく異様な光景だった。……どうして、ユウキは怖くなかったの? どうしてあそこで前に進めるの。どうして笑っていられるの。どうして、あいつらを信じられるの。
急に誰も入ったことないような未知の世界に向かわされて、どうして平然としていられたのか。いくら宝玉とスーツが揃っているからといって、無事で済むとは限らない。もしかしたらみんなグルで、そのスーツだって偽物かもしれないのに、ユウキが失敗すればみんな死んでしまうと言われているのに。世界の命運なんて大層なものを一人で背負わされてるのに、どうして、どうしてユウキはそれを受け止めて、何も言わずに進めたの。……どうして、何も言わなかったの。
あたしは……ひたすら平凡で普通のあたしは、あの光景がすごく怖かった。災害も、マグマ団も、アクア団も、超古代ポケモンも――そして何より、他でもないユウキが、お兄ちゃんのことが誰より一番怖かった。
同じ親から同じ日に生まれて、同じものを食べて、同じように育って、同じように旅立ったのに。今のあたしたちはこれほどまでに、立ち位置も見てるものも、手に入れたものも背負うものも掴めるものも違うのかと。……そして、それをまっすぐと当たり前のように受け入れている、ユウキのことが、片割れのことが怖かった。あたしなんかじゃダメだって、あたしには叶えられっこないって、そんな現実を突きつけてきた、ユウキの背中が怖かった。旅の過程でほんの少し離れていただけなのに、急にユウキが知らない人に見えた。
未だにあたしは今日の出来事をひきずっているのに、かたやユウキはけろっとしてパパやママと談笑に励んでいるのだから、もう、意味がわからない。
あたしは未だに手が震えてる。足に力が入らないし、喉が渇いて心臓がうるさい。
――どうして。何度目かもわからない独り言は、誰に届くこともなくシーツの波に飲まれて消えた。
今、あたしはユウキと同じ家にいる。階段を下りれば、世界を救ったヒーローが子供みたいに笑っている、その事実があたしにはひどく重たくのしかかっていた。怖くて、怖くて怖くてたまらないのだ。
きっと、あたしは初めから間違っていたのだろう。ユウキと自分を並べることがそもそもおかしくて、双子だとか、家族だとか、まずはその前提をやめるべきだった。血を分けた兄弟だろうとなんだろうと、そこにはきっと一生越えられない壁が、越えたくもない境がある。
あたしたちは別個体。……あたしたちは、残酷なくらい同じじゃない。
「……出て行こう、あたし」
口からぽろりとこぼれた言葉が、静寂に包まれた部屋のなかに落ちる。それはとうとう隅から隅まで渡ることなく、やがて何事もなかったようにこの部屋はまた静かになった。
ぎしり、小さく音を鳴らしながら、あたしはベッドに沈みきった体を起こす。さすがにこの音には気がついたのだろう、モンスターボールがカタカタと揺れる気配がした。真っ暗闇を手探りで進み、あたしは大切な仲間たちが収められたボールをそうっと抱きしめる。
「ひみつきち、つくって、そこで暮らすの。もう少しバトルが強くなって、お金も貯まったらどこか他の地方へ行こう。パパに会えなくなるのは苦しいけど……でも、もうここにはいられないや」
あたしが「あたし」であるかぎり、ここにいるあいだはきっとずっと、「ユウキの妹」というレッテルが貼りついてまわるのだから。
ごめんね、パパ、ママ。あたし、ここにいたらダメみたい。ここじゃあおかしくなっちゃいそうなの。遠すぎるユウキが怖くて怖くて、まともに顔を合わせられる自信がないんだ――
「もう少し大きくなって、落ち着いて、普通に話せるようになったら、戻ってくるから。……親不孝者でごめんなさい」
誰に届くでもない伝言を吐きながら、あたしは夜闇へ旅立つために、膨れ上がったウエストポーチを手に取るのだった。
まさかのORAS再燃。
どれくらいの長さになるかわかりませんがおつきあいいただけますと幸いです。
2022/05/03 加筆修正
2017/02/11