亀裂なんて入らない

 鏡を見るのが嫌いだった。
 年をとるごとに母親に似てくるこの顔は、おのれの想い人が――唯一無二の父親であるセンリが他の女と結ばれて、生涯を共にしようと決意し、子を成したというこのうえない証左である。
 おのれの存在がひどく疎ましかった。父親を好きだと思えば思うほど、矛盾を孕んだ自分自身が何よりも腹立たしくなる。
 衝動的に振りかぶった右手は結局空を切るのみで、所在なさげにだらんと垂れ下がった。無傷の姿見は絶望に満ちたチイロを映し、鬱屈したさまをあるがままに見せつけてくる。
 鏡を見るのが嫌いだった。醜い醜いこんな自分を、これでもかと突きつけてくるから。
「バカみたい……やめたい、こんなの」
 誰に向けてでもない弱音を吐き、現実から目を逸らすように顔を覆う。逃避には何の意味もないことくらいわかっているけれど、それでも向き合うことを拒んだこの体は。
 ――恋をするたび女の子は可愛くなるの! 背後のテレビでは人気のアイドルがきらめく笑顔を振りまいて、誰かの心に刺さるであろう文句を晴れやかにのたまっている。
 そんなふうに笑えたことなんか一度もない。苦しみばかりでないのは確かだけれど、しかし喜びや幸せ以上に苦痛が襲っているのは事実だ。
 誰にも打ち明けられない想い。誰とも共有できない恋。誰にも届きはしない熱情。
 チイロの不毛な恋は決して叶うことがないまま、誰かにぶちまけて発散することも許されずにくすぶるしかなかった。
 いっそのことすべてをなげうってしまえたら。何もかもを捨て、何を省みることもなく彼を奪ってしまえたらと思うけれど、とてもじゃないがそんなことはしたくない。異性としてのセンリはもちろん、父親としての彼を、そして他でもない母親のことも愛しているからこそ、日々こんなにも悩んでいるのだ。
 夫婦仲をぶち壊したいわけでもなくて。二人には末永く睦まじい様子でいてほしいし、それこそが娘である自分の本懐なのに。健気の皮をかぶった家族愛を邪魔する恋心が、まるでじわじわと蝕むように、ずっとこの身を苛んでいる。
 もういっそ、このまま消えてしまいたいと願うほどに。
 やわく抱きしめたプクリンのあたたかな体だけが、悲嘆に沈むチイロの心をゆっくりと癒やしてくれていた。

 
2021/11/11