陸にも海にも勝るもの

 超古代ポケモンのニュースを見るたび、ぐじぐじと心の奥底を抉られるような気持ちになる。
 あたしのなかでこの話題は半ばトラウマとなっていて、それはグラードンやカイオーガにレックウザなど、超古代ポケモンやそれに連なるポケモンの名前を見るだけで吐き気をもよおすほどであった。あの事件はあたしにとってある種の転機にも等しく、思えばあの出来事をきっかけにしてユウキに対する畏怖の感情を強めたのだ。今まで抱えていたただの“劣等感”が何よりも強く際立った“恐怖心”に変わる瞬間を、その過程を、あたしは他でもない自分自身の心の中に見てしまった。
 何が言いたいのかというと、つまるところあたしは今、きっと怯えているのだと思う。自分の目の前でただ静かにグラードンのおさまるモンスターボールを弄んでいる、他でもないユウキに対して。
 くるくる、くるくる。男女差の見えてきた手のひらの上で転がされるモンスターボールは、たとえコイキングが入っていようと伝説ポケモンが入っていようと、決してその重みや熱が変わることはない。何をどう足掻いても自分たちが双子の兄妹にあることに変わりがない、その事実と同じように。
「……にしても不思議だよな」
 出し抜けに口を開いたユウキは、あたしのほうを見もせずにそうぽつりと呟いた。モンスターボールから目を離していないおかげで、あたしが大袈裟に肩を揺らしたことにも気がつかなかったのだろう、あたしの返事が遅れても特に何を言うことはない。否、今までユウキが会話のテンポに文句を言うことなどただの一度もなかったのだけれど、あたしのなかにユウキへの恐怖心が巣くっているせいで、どうしても不要に身構えてしまうのだ。
 こんなことではいけないのに――あたしはぶんぶんと首を振り、努めて穏やかに返事する。
「えっと……何が?」
 そう絞り出したひと言にどれだけの想いを込めたのかも、きっとユウキにはわからないのだろうな。――わかられたくもないけれど。
「ポケモンだよ。グラードンとかレックウザとか、この世界を脅かしたり救ったりするようなポケモンですら、このちっさいボールに入れられたら言うことを聞くようになるじゃん。改めて考えるとさ、それってなんか、すごくもあるし怖くもあるっつーか」
「え……ユウキにも怖いと思うことってあるの?」
「はあ~? 当たり前だろ、怖いものだらけだっつーの」
 少しだけ声を張り上げながら、とうとうユウキがこちらを向く。信じられない、心外だ、なに言ってんだこいつ、他にもありったけの不服の感情を含んだ表情はほんの少し間抜けにも見えて、あたしは思わず吹き出しそうになるのをすんでのところでこらえる。
 笑われそうな気配を察したのだろうか、ユウキはほんのりと頬を染めながらふくれっ面になってしまって、その具合に幼い頃の彼のことをよぎらせた。あたしたちはケンカこそしなかったけれど、たまにユウキをからかうようなことを言ってはこうして彼をたじろがせていたっけ。
 ごめんね、とあたしが言うと、ユウキは「まあ別にいいけど……」と言いながらこちらに背を向けてしまった。二人だけのひみつきちのなか、お気に入りのテーブルに膝をつくユウキの背中はなんだかひどく広く見える。
 何度見ても“男の子”の背中だ。広くたくましくなったようではあるけれど、とてもではないがこの両肩に世界を背負い、未曾有の恐怖と戦った人間のものには見えない。
「と……とにかく。そう思うとなんとなく呆気ないっていうか、3000年の歴史や重みってやつもオレ一人でどうにも出来ちゃいそうで、ちょっと嫌だなって思ったんだよ」
 オレ、そんな大層な人間じゃないのにな。そう言うユウキの声色は昔と何も変わらない、少し拗ねたようなそれだ。けれどただの少しも変わらないでいることがあたしにはひたすら恐ろしくて、またひとつ腹の中に恐怖心の種を育ててしまった。
 ユウキが大層な人間じゃないとしたら。じゃあその「大層な人間」というのは、果たして一体どんな人のことを言うのだろう? 前人未踏のマグマの奥にすら潜り、ホウエン地方を、引いてはこの世界を日照りと雨の脅威から救い、あまつさえ襲い来る隕石の危機すら退けてみせた人間が「大層な人間」でないというのなら、一体どんな人間を「英雄」だと呼ぶのか。あたしの貧相な脳みそでは答えらしい答えを導き出すことができず、今度は軽い頭痛に見舞われてしまった。
 否、けれど、そうなのだろうな。客観視というのは得てして難しいもので、もちろんこのあたしだって自分のことを客観的には見れていない。それはパパだってママだって同じで、自分のことを100%客観視するってのは仙人とか、神様とか……いや、きっと神様だとしても、無理な話なのではないだろうか。
 でも、それはそれとして。今ユウキの右手におさめられているモンスターボールは、その存在でもってひとつの可能性を示している。それは彼という人間が超古代ポケモンや3000年の歴史に勝るかもしれない、そんな末恐ろしい“もしも”の話を。
 ユウキは選ばれた人間なのだ。きっとこの“世界”というものに、そして、この世界を動かす“歯車”に。もはや神様にすら愛されているようなユウキがあたしはやっぱり恐ろしくて、でも少し、ほんの少しだけ妬ましくもあるのだった。

 
20201112 加筆修正
20201111