不撓不屈にあこがれて

 とにもかくにもミシロタウンから離れたかったあたしが選んだのは、ホウエン地方の北東部にあるトクサネシティの周辺だった。ルネシティが近くにあるのは少し気にかかったけれど、ミシロタウンへのそれとは比べ物にならないので気にしないことにした。
 トクサネシティのさらに北、浅瀬の洞穴の近くに双子岩と呼ばれる二つの岩がある。ここは洞穴より更に奥まったところにあるため、あまり人目につくことはなく、身を潜めるにはうってつけだ。海のうえにある関係上、湿気は多いし潮風で髪が傷むけれど、住めば都という言葉を信じて、あたしはここを拠点とした。
 海の香りは故郷のアサギシティを思い出させてくれるので、それほど不快なわけではない。それに、浅瀬の洞穴はトドゼルガの故郷であるので、そういう意味でも都合は良かった。彼はこのあたりの事情に詳しいし、頼りになるポケモンであるから、あたしたちのことをしっかり引っ張ってくれるはずだ。
 ここが「双子岩」と呼ばれていると知ったのはひみつきちを作ったあとだったけれど、無意識に「双子」の、さらには「弟」側を選んでしまっていた自分には、ほんの少しだけ吐き気がした。

「よいっ……しょ、と。これで大丈夫かな?」

 ひみつきち内部に空いていた穴をじょうぶないたで塞ぎ、充分な強度があるかどうかを、踏みしめながら確かめる。多少しなりはするものの、定期的に補強したり交換したりすれば問題ないラインだろうか。
 今度はトドゼルガと一緒に何度か行ったり来たりしてみたが、150キロを越える巨体にも音を上げることはなかったので、どうやら見た目以上に丈夫なものであるらしい。

「うん、うん。これで問題なさそう。でも、万が一のこともあるから、みんなそうっと渡ってね」

 ポケモンたちは元気よく頷いて、あたしの言葉に応えてくれた。
 カクレオンの「ひみつのちから」によって作り出されたひみつきちのなかは、可もなく不可もなく……否、限りなく不可に近い「普通」だな、という印象だった。
 入り口すぐにちょっとしたスペースがあって、ここはいわゆるリビング、もしくは玄関のような役目を果たせそうである。細い通路を抜けた先にも同じような広さのスペースがあり、二部屋構造は思ったより住みやすそうだったけれど、肝心の通路に大きな穴が空いていたので、あたしはエアームドに乗って、急いでミナモシティまでじょうぶないたを買いに行った。ちょうど土曜日で掘り出し物市をやっていたのは不幸中の幸いというやつだろうか――ほかにも、ジュカインやプクリン、マッスグマにも協力をあおぎ、みんなで少しずつ内装を整えていく。
 最低限のつくえやイス、ちょっとしたインテリアとしてのお花。最後にすてきなベッドを置けば、あたしの小さなお城はすっかり完成した。幸いにもおこづかいにはまだ余裕があるし、頼もしい仲間たちもいるので、現時点ではなんとか暮らしていけそうに見える。

「ここが、新しいあたしたちのお家。……みんな、付き合わせちゃって申し訳ないけど、これから一緒に頑張ろうね」

 言うと、ポケモンたちはみんな力強く頷いてくれた。身勝手な自分と優しい子たちのコントラストが目に痛くて、あたしは思わず目の前が滲みそうになる。
 ――やらなくちゃ。もう逃げることはできないのだと、あたしはあえて自分のことを崖っぷちに追いやった。
 あのあと、あたしたちは無闇やたらに夜の帳へ飛び出した。行き先なんてちっとも決めずに、ただ、とにかくあの家から逃げたかったのだ。
「大事な用を思い出したので行ってきます」という書き置きを残して、部屋の窓から旅立ったあの夜。できるだけ羽音を立てないようエアームドにお願いして、ひたすら静かに、あたしなんて最初からいなかったみたいな、静寂だけ置いていった。
 宛もない旅路はあたしに不安や後悔を連れてきたけれど、それを上回って余りあるほどの開放感も与えてくれた。幼い子どものわるあがきと言って相違ない、ただの「家出」であったとしても、ユウキから距離を置くということが、今のあたしには何よりも必要だったのだから。
 彷徨うように飛びまわっているうちに、夜はその姿をすっかり隠してしまっていて。ゆっくりと目覚めた朝日はあたしを責めるようでも慰めるようでもあり、目に刺さっただけだという言い訳だけ用意して、あたしはほんの少し泣いた。
 そうしてたどり着いたのがこのひみつきちだ。一人きりであったらきっとすぐに心細くなって泣いていただろうけれど、今のあたしには大切な仲間がいる。ジュカインも、マッスグマも、プクリンも、エアームドも、カクレオンも、トドゼルガも、みんなみんなあたしにとってかけがえのない仲間で、頼れるパートナーなのだ。
 みんながいれば、この生活でも挫けたりしない。そんな確信が、あたしのなかには生まれていた。

 
  ◇◇◇
 

 結局一日目はひみつきちを整えるだけで終わってしまったので、特に何をする余裕もないまま溺れるようにベッドへ飛び込んだ。
 そのまま泥のように眠り、次に目を覚ましたときにはマルチナビの時計が午後一時をさしていて、思ったより疲れていたらしいことを察する。目を覚ます気配をいっさい見せなかっただろうあたしのことを、みんなよくそのまま寝かせてくれていたものだ。
 ベッドから上半身だけ起こして、思いっきり伸びをする。バキバキの体は熟睡していたせいなのか、それとも疲れがとれていないのか……真相はわからないけれど、とにかく、「たくさん寝たなあ」という感想があたしの頭を占めていた。
 ふわあ、と大きなあくびをすると、こちらに背中を向けていたプクリンが小さく反応した。ぷう、と鳴く声はとても愛らしく、撫でくりまわしてやりたくなる。

「プクリン、おはよう。いっぱい寝ちゃってごめんね」
「ぷ! ぷぅ、ぷっく~」
「ん、きのみ? ……もしかして、あたしのために採ってきてくれたの?」
「シャッ」

 葉っぱのお皿に乗せられているのは、おいしそうな山盛りのきのみ。それを差し出すプクリンの背後で、エアームドがあたしに向かっておちゃめなウインクをしてきた。
 おそらくこの二匹で食料を調達してきてくれたのだろう、ここいらではあまり見かけないそれに、ぎゅうと胸が締めつけられる。

「……ありがとう、二匹とも。大切に食べるね」
「ぷ!」

 あたしの返事に満足したらしい二匹は、再びどこかへ出かけていくようだった。他の子たちもそれぞれ諸用に出ているのか、気配はいっさい感じられない。
 森のなかであるならまだしも、こんな海のうえにあるひみつきちはさぞかし不便をかけていることだろう。ミシロタウンからの逃避ばかり考え、軽率に拠点を決めたことを少しばかり後悔した。
 けれど、くよくよしていても仕方ない。立地が悪いならそれに対応すればいいのだと思い直して、あたしは二匹が用意してくれた朝昼兼用ごはんをかじる。

「ん……おいし。あまいきのみばっかりだ」

 モモンのみ、マゴのみ、ナナのみといった甘いものを口に含むと、疲れが一気にとれた気がした。みんなの精いっぱいの優しさがつまっているから、尚更なのかもしれない。
 おいしいきのみに舌鼓をうって、山盛りのそれを半分ほど平らげた頃に、あたしのおなかは満腹を訴え始める。残りは夜かおやつにとっておこうかな、とベッドのそばに鎮座するつくえに、はっぱのお皿を置いた。
 満腹になって余裕ができると、急に頭が働くようになる。昨日は動きまわっていたおかげで何も考えずに済んでいたのに、立ち止まった瞬間いきなりあたしの脳内を占めたのは、もちろんユウキのことだった。
 目を閉じると、あの背中越しの景色がすぐあたしにのしかかってくる。勇敢に進む片割れの背中。今までずっと一緒に育ってきたはずなのに、あのときのユウキの背中は見たことがないくらい頼もしくて、広くて、まるで別人のようだった。

「どうして……あんなに、怖くなったんだろう」

 誰もいないのをいいことに、好きなだけ独りごちてやる。
 落ちついた今なら、自分の感情に疑問を持つことができる。どうしてあんなに恐れてしまったのか。どうして、あそこまでユウキのことを別人のようだと、さながらバケモノのようだと思ってしまったのか。
 ……わからない。考えても考えても、答えらしい答えにたどり着くことはなかった。思考は渦のようにうねり続けるし、出口のない洞窟のごとく、あたしの足首を掴んでいる。やめようと思っても制御できず、ただひたすらに、あたしは飲まれ、迷うことしかできないのだ。

「ずっと、一緒にいたはずなのに」

 大好きなお兄ちゃんだった。怖い怖いと言ってばかりだけれど、あたしはずっと、ユウキのことが大好きだった。今でこそ劣等感に苦しめられているけれど、小さい頃はみんなに好かれるユウキのことが自慢だった。あたしのお兄ちゃんはこんなにすごいんだよって、世界で一番格好いいよって、そんなふうに思っていたはずなのに。

「あたし……なんで、こんなふうに悪い子になっちゃったんだろう」

 あんなにも大切で、ずっと一緒にいて、笑いあった、「大好きなお兄ちゃん」だったのに。そう言えなくなってしまった自分が、誰より何よりきらいだった。

 
  ◇◇◇
 

 ふわ、ふわ。雲のうえにいるような、文字通り浮くような心地のなかであたしは意識を得る。一瞬チルタリスの背に乗っているのかと思ったけれど、あいにくとあたしはチルタリスなんて持っていないし、独特の空気感がこれを夢だと告げていた。
 ――あ、あれ。動かない。体、言うこと聞いてくれない――
 たとえ夢だとわかっても、イコール何でも自由になるなんてことはいっさいありえない。夢のなかでも思う通りにいかないのには、なんとなく胸が苦しくなってしまったけれど、その鈍い苦痛も夢特有の浮遊感が和らげてくれた。

「――ら、さい――」

 刹那、眠るあたしの頭上から誰かの声が降ってくる。優しいそれがあたしの意識をゆっくりと揺らすさまは、なんとなく幼い頃のことを彷彿とさせた。
 声の主が誰なのか。それをはっきりさせるために、あたしは意識を集中させる。

「――ら、ほら。チイロ、早く起きなさい。ユウキはもう行ってしまったよ」

 ――パパだ! 大好きなパパの声にあたしの心臓は一気に跳ね上がって、鼓動がどくりとおおきな音を立てる。
 そういえば、昔はパパがお休みの日にこうして起こしてもらっていたっけ。アサギシティにいた頃はユウキと部屋が同じだった関係上、二人まとめて一気に叩き起こされていた。あたしたちが寝入っているととうとうヤルキモノを出動させたりして、朝からてんやわんやの大騒ぎになることだってあった。
 ……パパ。在りし日のことを思い返して、あたしはまた別の意味で胸が苦しくなる。
 ごめんね、パパ。起こしてくれてありがとう――そう伝えたいのに、あたしの体は依然として言うことを聞かず、優しくてあったかいパパの声をただ聞いていることしかできない。

「まったく……。まあ、昨日は大変だったようだし、仕方がないか。お昼までには起きて、ちゃんと母さんに挨拶するんだよ」

 そう言って、パパはくるりと踵を返して、もやのなかへと消えてゆく。
 待って、パパ。行かないで。もっと、ちゃんとそこにいて。あたしのこと、置いていかないで――そう思えどもパパの背中は、ゆっくり遠ざかっていく。

「ぁ……ぱ、ぱぱ――」

 やっと、声が出せたのに。あたしの声はとうとうパパに届くこともなく、波のかたちだけつくって、消えた。
 そして、その背中が消え去る最後の瞬間に、ほんの一瞬だけユウキのそれが重なったような気がして――あたしは、その背中にすら置いていかれてしまったのだった。

 
  ◇◇◇
 

 夢を見ていた気がする。優しくて、あたたかくて、そして、ひどくさみしい夢。ぼんやりとしたあたしの頭は夢の内容を覚えてはいなかったけれど、胸の奥にだけは切ない感情がしっかりと残っている。
 まどろみから手を離すようにうっすらと目を開ける。視界に入ったのは、天井にひっかけたライトで逆光になった、マッスグマの顔だった。あたしのことを案じるように覗き込むその表情は、捕まえたばかりの……ジグザグマの頃と変わっていなくて、愛らしさに笑みがこぼれる。
 この子は、あたしが初めて捕まえたポケモン。パパに捕まえ方を教えてもらいながら、102番道路でゲットした子だ。パパと一緒に捕まえたからなのか、それともノーマルタイプだからなのか、この子といるとパパを感じられる気がして、旅の途中にはよくこの子を抱いて眠ったものだ。
 そういえば、この子を捕まえた直後にユウキと初めてのポケモンバトルをして――そして、けちょんけちょんに負かされたんだったな。

「マッスグマ、あたしのこと起こしてくれたの?」
「ぐま」
「えへへ……そっか、ありがとね。顔でも洗ったらすっきりするかな」

 ひみつきちで生活を始めてから、そろそろ二週間が経とうとしている。はじめこそ不慣れな生活に四苦八苦していたけれど、近頃は少しずつ体も馴染んできたようで、思ったより健やかに生活できている気がする。
 やけにふわふわした夢を見ることだけは気になっているけれど……それでも、あたしなりになかなか自由な日々を送れていと、自負していた。

「ぐ、ぐっ」
「ん……えへへ、くすぐったいなあ。どうしたの?」

 じゃれつくように体を擦りつけてくるマッスグマを抱きしめる。あたたかくて柔らかい体はあたしの心を静かに癒やしてくれるようで、そっと安堵の息を吐いた。
 ――頑張らなきゃ。みんながいるのだから、あたしは絶対に挫けない。痛みも苦い思い出も数え切れないほどあるけれど、それらすべてに打ち克つように、きちんと顔を上げて歩かなくちゃ。

「マッスグマ……あたし、いっぱいいっぱい、頑張るね。精いっぱい、あたしの道を――あたしだけの道を見つけるんだ」

 がむしゃらで、からげんきで、むこうみずであったとしても。あたしはもう、この両足を止められない。

 
2022/05/05