つまさきの怪物

 あの日以来実家に顔を出す機会を増やしたのは、そらをとぶ手段を手に入れたことはもちろん、件の出来事で家族に心配をかけたという自覚があるからだ。
 母さんはあっけらかんと言っていたが、オレたちが寝静まったあとに一人でさめざめと泣いていたのを知っている。たまたま夜中に起きてきたとき、神妙な調子で父さんと話しているのも聞いてしまったし、次の日、化粧でできるだけ隠してはいるようだったけれど、両目を確かに腫らしていた。
 のうてんきに帰ってきたオレを叱ることも咎めることもなく、母さんはまっすぐにオレのことを抱きしめて、ただ「無事でよかった」と言ってくれた。父さんだって、母さんに抱きしめられたオレの肩に手を添えて、「よく頑張ったな」と労ってくれた。両親からの確かな愛情というものを、オレはあのとき、しっかりとこの身で感じたんだ。
 だからこそ気になるのはチイロの――かけがえのない半身のことだ。チイロはオレと一緒に母さんに抱きしめられて、父さんにだって労いの言葉をかけられていた。オレたちに与えられたものは等しく同じであったはずだ。
 なのに、あいつはやけに暗い顔をして、お疲れ会もせずにさっさと部屋に帰ってしまった。数ヶ月ぶりの、けれどもあまり慣れない実家で何を思ったのかは知らないけれど、翌朝には紙切れ一枚だけ残して、すっかりいなくなってしまっていたのだ。

「……マジで、急にどこ行っちゃったんだろうな」

 リビングでぼうっとテレビを見ながら、つい、思った言葉をそのまま口に出してしまった。オレの出し抜けな発言を怪訝に思ったのか否か、バシャーモはこてんと首を傾げてオレのことを見ている。
 アチャモの頃から変わらない仕草は今でも充分愛らしいが、バシャーモのデカさでやられると、それとは裏腹になんとなく威圧感があった。
 実家でだらだらと過ごすたび、オレはずっとチイロのことを考えていた。引っ越してすぐ旅に出てしまったから、この家にあいつとの思い出が募っているわけではないけれど――それでも、家のなかの端々に、チイロのかけらを感じてしまう。

「シャモ?」
「オレたちに何にも言わずにいなくなったんだぜ。こんな紙切れ一枚残して……」

 言いながら、ポケットから小さな紙切れを一枚取り出す。これがチイロの残した残骸。「大事な用を思い出したので行ってきます」なんて一言だけ書かれたそれは、12年間ずっと見続けた丸っこい字で認められている。オレのかくかくしたそれとは違って、ひどく女の子らしい筆跡だ。
 ……チイロは、急にいなくなった。何の兆しを見せることもなく、オレの目の前から姿を消した。今までずっと一緒にいたのに、何も言わずにすっかり消えてしまったのだ。
 マルチナビに連絡を入れても特に反応はないし、少なくともミシロタウンの周辺でチイロのすがたを見たことはない。あれからもうひと月近くが経とうとしているけれど、まったくと言っていいほどチイロの足跡は掴めなかった。
 ……避けられているのだろうか。そんなことを思うくらい、オレにとってチイロの消失はイレギュラーな出来事であった。

「もう、ユウキったらまーたそんなこと言って。あの子ももう一人前のトレーナーなんだし、心配しなくたってちゃんとうまくやってるわよ」

 なんたって、パパとママの血を受け継いだ、大切な娘なんですからね。
 オレがバシャーモと話していると、キッチンからデザートを持ってきた母さんが会話に入ってくる。途端に漂うあまいかおりの出どころは、かつてチイロが好んでいた、モモンのみをふんだんに使った特製タルトのようだ。もちろんあなたのぶんもあるからね、とおおきめのタルトを差し出す母さんに、バシャーモはむじゃきな笑顔を見せている。
 チイロは、このタルトを前にするとひときわはしゃいで喜んでいた。幼い子供のように飛んで跳ねたりして――大人から見れば12歳だってまだまだ幼い子供なのだろうが――満面の笑みを浮かべながら、全身で喜びを表現していた。
 チイロが不在の状況で、チイロの話をしながら、チイロの好きなタルトを食べる。その事実は当たり前のようでいて、なんとなくさみしくて、かなしい。

「ユウキだって、ついこの間までほとんど連絡も寄越さないままだったでしょう? 最近はこうしてたびたび帰ってきてくれるけど、この間の超古代ポケモンがどうこうってときには、それはもうずいぶん無茶したみたいだし」
「それは――そう、だけど」
「あんなこわーいポケモンと対峙したあなたが大丈夫なんだから、チイロだってきっと大丈夫よ。確かにあの子はあなたに比べて甘えんぼなところがあるけど、意外にしっかりしてるもの」

 そうよね、パパ――母さんが声をかけた先は、リビングから玄関につながる廊下のほうだ。ちょうどオレの真後ろにそれはあって、誘われるように体をひねると確かに父さんの姿があった。父さんはまさに今帰ってきたところ、というような様子で、いきなり話を振られて面食らっている。
 けれど、それでも父さんは軽く首を傾げながら、ちいさく「……チイロのことか?」と言った。オレたちの様子を見てなんとなく察したのだろうか――湧き上がる疑問はオレに無意識の熱視線を向けさせていたらしく、父さんはどことなく落ちつかなそうに笑った。

「二人の話が聞こえていたんだよ。少しだけだけどね」
「なんだ、盗み聞きかよ。趣味悪いな」
「はは、そう言うなって。わざとじゃあないんだよ。二人が話し込んでいるようだったから、なんとなく、入るタイミングが掴めなくてね」

 父さんは、頬をポリポリとかきながらはにかむ。その表情はトウカジムを守るジムリーダーと同一人物に見えないほど柔らかくて、今の父さんがオフモードであることを言外にしっかり伝えてきた。

「チイロのことは私も気になっていたんだよ。まあ、ユウキほどではないかもしれないが――」

 言いながら、父さんは話し込む前に洗面所へと消えていった。
 帰宅直後の手洗いうがいは我が家のスローガンのようなもので、おかげで夏も冬も風邪らしい風邪をほとんど引かずにすんでいる。

「チイロだって、ちゃんと手洗いうがいは守ってるわよ」

 オレが口を動かす前に、母さんが釘を差すようなことを言う。わかってるよ、と悪態をつきながらタルトをひとかけ頬張った。
 そうこうしているうちに、洗面所の所要を済ませて戻ってきた父さんが、オレの正面に座る。母さんはいつの間にやら父さんのぶんのタルトを用意していて、相変わらずの睦まじさに少しだけ居心地が悪くなった。案の定というかなんというか、父さんのために切り分けられたタルトはオレのものより少しだけ大きく見える。
 母さんは自分用のタルトを片手に、父さんのとなりへ座る。ふわりと微笑む顔がチイロのそれと重なって、オレはまた、もやもやとした感情を抱える羽目となった。

「ユウキは本当にチイロのことが好きなのね」

 とっておきのタルトを口に含みながら、事もなげに母さんが言う。
 オレは図星をつかれたような気持ちになって、ついタルトを喉につまらせそうになってしまった。噎せてはならぬとなんとかこらえ、サイコソーダを一気に飲み干す。
 開けたばかりで炭酸が抜けていないそれはあまりにも勢いが良すぎて、喉が焼けてしまいそうな感覚に陥ったけれど……まあ、変に無様なすがたを晒してしまうよりは何倍もいい。
 何より、炭酸のしゅわしゅわした味わいがオレに迫るモヤを晴らしてくれるような気がして、なんとなく心地がよかったのだ。

「そりゃまあ……双子だし。今までずっと一緒にいたんだから、そうなるのは当たり前だろ」

 ちいさく咳払いをしながら、オレは平静を装って答えた。
 オレの水面下の見栄など知りもしない母さんは、タルトをひとくち、ふたくちと口に運びながら、頬を押さえて「うん、おいしい」と自画自賛している。いつも一番に感想を言うのはチイロだったのにな、と思い始めた途端、またもやもやが膨らんだ。

「はは……まあ、兄妹仲がいいのは結構だけど、ユウキも、そろそろ妹離れをしてもいいんじゃないか?」

 チイロのことを考えているのだろう、父さんは伏し目がちに優しく笑いながら、母さんのタルトを口に運ぶ。チイロの好きな味だな、と言う声色にはひときわの愛おしさが溢れていて、父さんのチイロに対する愛情がこれでもかと伝わってきた。
 父さんも、もちろん、母さんだって、ちゃんとチイロのことを考えているはずなのにな。
 父さんの仕草に感じ入る裏側で、オレの心には再び大きなモヤがかかった。人の一挙一動で呼び出される形も名前もないそれは、すぐにオレのことを覆い隠して、やがてすっかり飲み込んでしまうのだろうか。いつかオレは「オレ」ではない、その「何か」になってしまって、まるで別人のような変化を――それこそ、ポケモンでいう進化のようなものを、遂げてしまったり、するのだろうか。
 それはひどく恐ろしいけれど、反面、それこそがオレのあるべき姿であるような気もする。もしかするとオレは、みんなが思うほど清廉潔白な人間ではないのかもしれない。
 たかだか12歳やそこらの子供が言うことではないのかもしれないが、しかし、オレにはそう思えてならなかった。オレはきっと、みんなが望むような「立派なチャンピオン」になれる器ではない。
 そんな疑念がうまれたのは、父さんのとあるひと言が、やけに引っかかってしまったせいだ。

「妹離れ……?」

 オレは、その引っかかりをきちんと消化するために、あえてそれを言葉にする。音の波として吐き出されたそれはすぐに消えたように見えて、しかし、この場にいるメンバーの耳にきちんと滑り込んだようだ。

「そうよ。あなたたちももう12歳になるんだし、あんまりチイロにべったりするのもよくないわ」

 途端、足元が静かにわなないた。「妹離れ」という些細な言葉が、それこそ大きな影のようにオレへと襲いかかってくるようで、一瞬で喉がカラカラに渇く。
 けれど、むやみやたらに「いやだ」なんて言うこともできず――否、言ってはいけないような気がして、オレは静かに、押し黙るという選択肢をとった。軽率に選んだ答えがどんなふうに働くかわからなかったし、それ以前に、うまく声を出せる自信もない。
 急に口をつぐんだオレに、父さんは何かしらの異変を感じ取ったらしい。ちらりとこちらに目を向けたあと、視線を落として何かを考え込む。
 ふむ。父さんは得心したような素振りで、再び話を始めた。

「ユウキは、チイロと離れるのがいやか?」
「……、ぇ?」

 乾いた喉からは、無様に掠れた声しか出ない。オレは動揺をごまかすようにサイコソーダで喉を潤して、今度はきちんと発声できるよう、コンディションを整えておく。タルトはまだ半分くらい残っていた。

「いやね、父さんにも覚えがあるんだ。ユウキよりも小さい頃、お前たちに負けないくらい、兄貴にべったりだった時期があってね。『そろそろお兄ちゃん離れしなさい』なんて、両親によく叱られたものだよ」
「あ~、それならママにもわかるわ。ママのお兄ちゃん、年は少し離れてるんだけど、ものすごく素敵な人でね? 彼女を連れてきたときなんか、お兄ちゃんがとられちゃうって泣いて暴れたりしちゃったもの」
「そうか……やっぱり、兄弟がいるとどうしても、そうなってしまうのかもしれないね」

 父さんと母さんの談笑のおかげで、オレの足元から這い上がってきていた怪物は知らぬ間にいなくなっていたようだった。……否、もしかすると、ほんの一瞬姿を隠しただけかもしれない。
 おかしいことではないのか。兄弟姉妹間に生じる感情というものは、オレが異常なわけではなく、どこの家にも多かれ少なかれ存在するものなのだろうか――そう思う傍らで、オレ自身、無意識のうちに二人との相違点を見出してしまっている。オレとチイロのあいだには、きっと父さんや母さんと伯父さんのそれとは決定的に違う「何か」がある。
 それが何なのかはわからない。名前のつけられるものなのかも、世界に許されることなのかも。大人に言わせれば「思春期の勘違い」なんて簡単な言葉ですまされるような、些細な問題である可能性だってなくはない。
 ほんの少しわかることがあるとすれば、オレがその感情のいっさいを捨てることができないこと。そして、他でもないチイロに会って、確かめなければならないこと。
 ――チイロを探そう。そんな誓いを新たに、オレは母さんのタルトを再び口に運び始めた。何度咀嚼しても変わらない、「チイロの好きそうな味のタルト」だ。

「私の言い出したことだし、今更こんなふうに言うのもおかしいけれど……別に、兄弟離れを急ぐ必要はこれっぽっちもないからな。ある程度大きくなれば、自然と分別もつくはずだからね」

 そう言って、父さんは頼もしく笑った。オレもチイロも大好きだった、優しくてあったかい父さんの顔だ。
 けれど、オレはなぜだかその顔にひどい罪悪感を抱いてしまって、目をあわせることができなかった。足元の怪物はやはり再び存在感を示し始めて、背中に嫌な汗が伝う。なんだか、急に自分がひどくいけないことをしているような気分になった。
 ただひとつ、「わかった」という曖昧で当たり障りのない返事だけして、最後のひと口を放り込む。――チイロを探しに行こう。話題転換のためか否か、談笑に勤しむ二人にちいさく挨拶をして、食べ終わった食器をシンクまで運んだ。そして、すぐ階段を駆け上がって自室に戻る。オレの様子を案じたらしいバシャーモが心配そうに顔を覗き込んできたが、ぎこちない笑みを返すので精いっぱいだった。

「なあ、バシャーモ。オレ、チイロを探しに行きたいんだ。会って話したいことがある」
「シャモ……?」
「付き合ってくれるか? もちろん、他のみんなも」
「シャモ!」

 バシャーモに呼応するかのごとく、携えたモンスターボールがガタガタと一気に反応を示す。みんなついてきてくれるらしい。仲間たちの優しさに感謝しながら、オレはゆっくりと深呼吸をして、窓の向こうの空を見据えた。

「……行こう。ちゃんと、チイロと会って話さないと……!」

 一番の相棒であるバシャーモとグータッチを交わして、オレはいそいそと出発の支度を始めるのだった。

 
2022/05/12