糸よりも細く

「――とはいえ、だ。勇んで出てきたはいいけど、めぼしい場所があるわけでもないんだよな……」

 むげんのふえで呼び出したラティオスの背中に乗りながら、雄大なホウエン地方をぐっと見下ろした。
 引っ越してきてまだ数ヶ月しか経っていないくせに、目に映るあちこちに思い出の花が咲いている気がする。流星の滝だの深海だのと、普通ならおおよそ立ち入らないようなところまで駆けまわったあの日々は、それほどまでに怒涛の旅路だったのだと、無我夢中だった毎日を振り返る。
 ――楽しかった。色んな事件に巻き込まれて散々な目にあったけれど、オレのなかに残るのは「楽しかった」という思いばかりだ。
 毎日くたくたになるまで動き続けた。苦しくてつらくて、ホームシックになったりもして、人知れず枕を濡らした夜もあった。それでも、あの日常にはこのうえない充足感があった。
 けれど……否、だからこそ。オレのなかに沸々と湧きあがってくるのは、「チイロと一緒に旅したかった」という、かくも女々しい思いばかりだ。
 淋しかったからとか、不安で仕方ないとか、そういう弱い理由ではない。ただ、オレにとっては「チイロと一緒」が当たり前だった。オレたちはずっと一緒だった。生まれたときから今までずっと、同じ道を歩んできた。どんなときも手を繋いでやってきたと、そんなふうに思っていた。
 思えば最初はチイロだってどこか不安そうにしていたし、確かトウカシティまでは一緒に行ったはずだ。ミシロタウンからコトキタウンへの道中は二人でけらけらと笑いながら進んで、見たこともないホウエン地方のポケモンたちを前に目を輝かせながら、あんなポケモンに会いたい、こんなポケモンがいたらいいなと、希望に溢れた未来のことを何度も何度も語り合った。
 けれど、トウカシティにたどり着いてからは一転。オレは父さんにミツルがポケモンをゲットするところを見守るよう頼まれ、そのあいだに、チイロは父さんに手伝ってもらってジグザグマを捕まえていた。初めての別行動にひどく胸がざわついたのを覚えている。
 そのあと、父さんに見守られながら兄妹で初めてのポケモンバトルをしたのだけれど――

「そういえば、あのバトルが終わってからだっけ。チイロが一人で行きたいなんて言い始めたのは」

 もしかすると、オレはあのとき既にもう、間違ってしまっていたのだろうか。
 チイロへの接し方は言わずもがな。双子の兄妹がずっと一緒にどこまでも行くだなんて考えこそが、愚かな幻想かつ、オレの一番の罪だったのかもしれない。

 
  ◇◇◇
 

 ただ上空を飛んでいても仕方ないことに気づいたのは、豆粒みたいな大きさのホエルコの群れを見たときだった。オレは別に原住民よろしい驚異的な視力を持っているわけでもないし、ぐるぐる飛びまわっているだけでは見つかるものも見つからないだろう。
 上から全体をさらうのはもうやめて、そろそろ地に足をつけてしらみつぶしにしていってもいいのではないか――そう思って降り立ったのがトクサネシティであるあたり、オレはオレが思っている以上に人探しが下手というか、不慣れというか。みんなが言うほど要領が良いわけではないらしい。

「うーん……とりあえず降りてみたはいいけど、トクサネでわかることなんてあるか? なあバシャーモ、ここで何か思い当たること、あるかな」
「シャモ……」
「ないよなあ……別に、ここでチイロとバトルしたわけでもないし――」

 あえてトクサネに降り立った理由があるとするならば、それはもちろん「ここが一番近かったから」だ。さっきまで赴くまま、風の吹くままに海のうえを飛びまわっていたから、手近な町に腰を下ろしたに過ぎない。
 ここにチイロの残滓があるのかと言われたら、我ながら甚だ疑問である。トクサネでやりあった記憶はない。直近でのチイロとの邂逅は、ミナモでハルカとバトルしたあと、デパートで買い物中に一瞬すがたを見たくらい。そのあと言葉を交わしたのは、確かオレがルネシティでめざめのほこらに足を踏み入れる前だ。
 トクサネシティにチイロの気配はない。この場所に、チイロを結びつける要因なんてありはしない。……わかっているはずなのに、なぜだかオレはこの町に用がある気がしてたまらなかった。

「ロケット、とか……? ……いや、でもな。チイロが宇宙に特別の関心を持ってた覚えはないし、仮にそうだったとしても、いきなり働けるはずないもんな」

 トクサネ宇宙センターからまっすぐ伸びるロケットを、思いっきり見上げてやった。このロケットは確か、デボンが開発している∞エナジーというものを使って稼働させているのだったか。
 ――デボンといえば。この町にはデボンコーポレーション社長の息子であり、現ホウエンチャンピオンでもあるダイゴさんの家があったはずだ。以前一度訪ねたことがあるそこは、大企業の社長の息子かつチャンピオンだなんて肩書きを感じさせないくらいこじんまりとしていて、ひどく落ちついた造りをしていたと記憶している。
 ただ、家の至るところにはきちんと石にまつわるものが飾られていて、端々から彼という人間を感じられたのは少し面白かった。その数たるや、どこを向いていても必ず視界に入るくらいの勢いだ。
 ……在宅中かはわからないが、訪ねてみるのもありかもしれない。チャンピオンである彼ならば、もしかするとチイロに関する噂を耳にしているかもしれないし――

「シャモ!」

 オレの意図を汲み取ったのか、バシャーモが行こう! というふうに力強く頷いた。意志の強い瞳に、このうえない勇気をもらう。
 ……いつもそうだ。挫けそうな旅路のなか、足が竦みそうになるたび力をくれたのは、いつだってバシャーモの力強くまっすぐな瞳だった。

「――ああ! 行ってみよう、バシャーモ」

 オレはバシャーモとグータッチを交わしながら、まっすぐとダイゴさんの家に向かった。

 
  ◇◇◇
 

 ――いらっしゃい、ユウキくん。まさか、また会いに来てくれるだなんて思ってもみなかったよ。

 ダイゴさんの優しげな声が、なぜだか頭の奥にこびりついて離れない。
 オレはいやに緊張して縮こまりながら、目の前で優雅に佇むダイゴさんの横顔を眺めていた。

 
 この家の主は、留守にしているときのほうが多い。そう聞いたのは、ちょうどインターホンを鳴らそうと指をかけたときだった。
 やはりチャンピオンという職務上忙しいのか、はたまた趣味の石探しに没頭しているからなのか。彼がここに戻るのは良くて週一、もっとひどいと月一くらいなのだと、隣に居を構えている親切なお兄さんが教えてくれた。なんでも、こんなふうに彼を訪ねてはため息まじりに帰っていく人を、度々見ているらしいのだ。
 話を聞いたオレの頭に浮かんだのは、ただシンプルな、「困ったな」という感想である。確証はないにしても、ダイゴさんはチイロを見つけ出す糸口になってくれる人かもしれないのに。
 再び、まるで迷路の行き止まりにでも出くわしたような気分になる。ずっしりと重く、見上げるほど高く立ちはだかる壁に、体がひるむような感覚を覚えた。
 とはいえ、このまま玄関前で手をこまねいていても仕方がない。まずは何かしら行動に移そうと、オレはバシャーモに見守られながら、インターホンに添えていた人差し指に力を込めた。無機質な音がゆっくりと鳴り響いて数拍の後、ダイゴさんは予想外にも、微笑みながら顔を出してくれたのだ。

 ――オレのほうも、まさか本当に会えるとは思ってなくて。

 素直な気持ちを伝えると、ダイゴさんは小さく笑いながらうなずいた。たしかにボクはこの家を空けがちだからね――そう言う横顔はどこか感じ入るようなそれで、もしかすると触れてはいけない何かを一瞬つついてしまったのかもしれないと、そんなことが頭をよぎった。

「……で、だ。ユウキくんは、ボクにいったい何の用で?」

 ひどく上等な椅子に腰かけながら、ダイゴさんがゆったりとしゃべり始める。足を組み、膝の上で手をあわせるさまはまさにチャンピオン然としていて、いくらオレが背伸びをしてもいっさい届かないような、育ちの良さと大人の余裕を感じさせた。
 ――決して届かないと思うのに、目を離せないくらい憧れる。オレもいつか、こんなふうになれるかな。そんな淡い期待を抱いてしまうほど、ダイゴさんは独特の引力をまとっていた。
 オレはいささか言葉に迷いながら、意を決して、口を開く。この人相手に下手な方便や見栄は意味がないと考えた。

「オレ、チイロのことを探していて……えっと、チイロっていうのは、オレの双子の妹で。ダイゴさんも、前に会ったことがあると思うんですけど」
「ええと……ああ、あの子か。キミがそんな血相変えて探すだなんて、もしかして、彼女に何かあったのかい?」
「何か――というか。別に、ケンカしたとか、そういうのではないんですけど」

 うまい言葉が出てこなくて、オレはみっともなく視線を彷徨わせた。
 うろつく視線の先、ダイゴさんの石コレクションが珍しいのか、バシャーモが興味津々といったふうにガラスケースを眺めているのが見えた。傍らにはダイゴさんのアーマルドが立っていて、どうやらバシャーモにコレクションの説明をしてくれているようだ。
 ささやくような二匹の声からは、こちらに気を遣ってくれているのが十二分に伝わってくる。静かな声色は品の良い音色のようにも感じられて、ひと言で言うなら、心地が良い。
 彼らのさえずりに耳を傾けながら、オレはざっくりと事のあらましを説明する。ダイゴさんの整然とした物言いとは打って変わった、生身でしどろもどろの言葉だ。

「なるほどね……確かに、大切な妹さんが急に行方をくらましたら、誰だって心配になるだろうな」
「はい……父さんと母さんは気にしすぎだって言うんですけど、でも、オレはなんか、嫌な予感がとまらなくて」

 ――嫌な予感。改めて口にすると、再び足元から何かが這い上がってくるような感覚に陥る。視線を下げたとて、そこには何もいないのに。
 急に押し黙ってしまったオレを気遣いながらも、ダイゴさんは嫌みなく続きを促した。

「今ここでチイロを探さなかったら……チイロから、目を離してしまったら。何か、とんでもないことが起こる気がして仕方ないんです。だからもう、居ても立ってもいられなくて」

 ぐ、と胸の前で手のひらを握り込む。チイロがいなくなってから――否、本を正せばトウカシティで離れたあのときから、ずっとこの胸には謎の違和感が頭をもたげていた。
 最初のうちは、ジョウトからホウエンへの引っ越しに加えて、急に旅に出るだなんてイレギュラーの連続が引き起こした気の迷いだと思っていたけれど。それでも、こんなにも長期間続くのであればそれ以上の何かがあるのかもしれないと、近頃それは確信に変わりつつある。
 父さんにも母さんにも見えないような名前のない何かが、オレの胸の奥に巣食っているのだ。

「キミたちは双子の兄妹なのだし、ご両親には読み取れないような……いわゆる、第六感で結びついているのかもしれないな」
「第六感……ですか?」
「ああ。一卵性の双子となるとひときわ、なんだけどね。双子は生まれたときから同年代の子供がそばにいるから、幼年期なんかはお互いにしか伝わらない特別な言語を使ったりして、他の子より喋り始めるのが遅い、なんて話を聞いたこともあるな」

 ほら、ここのジムリーダーも双子の兄妹だろう? だからなのかはわからないけど、この町にいると、自然とそういう知識が身につくんだよね――ダイゴさんはそう続けながら、ちいさく笑ってみせた。
 そして、言い終わるや否や、窓の外に目を向ける。この町から見て、ちょうど北の方角だ。

「そういえば、ユウキくんは浅瀬の洞穴に行ったことがあるかい?」
「え? ええと……浅瀬の貝殻や塩が採れるところ、ですよね」
「ああ。実は、あそこよりも少し奥まったところに、『双子岩』と呼ばれる二つの岩があるんだ。人目につきづらいところだから、身を隠すにはちょうどいいんだよね」

 他にも、この近辺には身を隠しやすいひみつきちがたくさんあるんだ――ダイゴさんはそう言って、オレのほうに視線を移した。その目はまるで「行ってみるかい?」と訴えかけているようで、オレはいっさい目を逸らすことなく、ゆっくりと頷いてみせる。

「……行きたいです。チイロにつながることなら、全部、確かめたいから」

 喉の奥の奥から出た本心に、ダイゴさんは満足げな微笑みで返事した。
 

「ありがとうございました! オレ、周辺をしっかり探してみます」

 見送りに出てきてくれたダイゴさんとアーマルドへ、バシャーモと共に思いっきり頭を下げる。オレたちの極端な態度にも彼らはいっさい動じることなく、そんなに改まらなくていいよ、と頭を上げさせた。

「気をつけて行っておいで。お役に立てたかどうかはわからないけれど――」
「そんな、とんでもない! ダイゴさんのおかげで、さっきより何倍もチイロに会えるような気がしてます」
「それはよかった。……本当に、会えるといいね」

 優しく目を細めるダイゴさんに、力強くうなずく。改めて見ると、トレードマークのジャケットを脱いで随分ラフな格好をしていることに気がついた。
 途端、今日はダイゴさんにとってたまの休みだったかもしれないのに、いきなり押しかけたうえやけに時間をとらせてしまったことについて、今さら罪悪感がこみ上げてくる。
 間に合わせのように謝罪すると、ダイゴさんはやはり落ち着き払ったまま、そんなことは気にしなくていいんだよと笑ってくれた。
 ……敵わない。これが本当の「大人」なのだなと、強く突きつけられた気分だ。

「あ、あのう――」

 オレたちが談笑に励んでいると、再びお隣のお兄さんが声をかけてきた。彼はダイゴさんに挨拶する傍ら、ちらちらとオレのほうを見てくる。
 怪訝そうな反面、どこか気遣わしげでもある顔つきは、オレと目が合った途端に確信のようなものをまとう。その曖昧な視線に耐えきれず、オレはまっすぐに疑問を口にした。

「あの……オレの顔、何かついてます?」
「ああ、いや。不躾な真似をしてごめんね。その……きみ、もしかしなくても、センリさんの息子さんだよね」
「そうですけど――」

 オレがそう返すと、彼はいよいよ大きく頷いて、なんとなく安堵したような表情を浮かべる。何のことだがわからないオレたちは、彼の様子にただ首をかしげるのみだったが――

「いや、実はね。少し前に、あそこのフレンドリィショップでセンリさんの娘さんを見たことがあるんだよ。……ただ、ずいぶん思い悩んでいるふうというか、暗い顔をしていたから気になってしまって」

 ――どくり。刹那、オレの心臓はやかましいくらいに大きな音を立てて暴れだした。全身の血が逆流するかのように高ぶり、思わず震えてしまった手のひらを強く握り込んで、耐える。

「……彼女は、今どこに?」

 オレの心境を察してくれたのか、ダイゴさんが気遣うように話を進めてくれる。正直なところ、今しゃべるとろくな言葉が出てきそうになかったので、彼の助け舟はとてもありがたい。
 震えそうになる喉をなんとか律して、まっすぐにお兄さんのほうを見た。ただならぬオレの気迫にお兄さんがかたくなるのがわかったが、今となってはもう、そんなこと気にしていられない。
 チイロにつながる細い糸を掴むことに必死で、オレはもはや、何も気遣う余裕がなかった。

「特に何か話をしたわけでもないし、どこにいるかまでは知らないけど……ただ、あっちへ向かってエアームドで飛んでいったのは見たよ」

 お兄さんが、チイロが去ったと思しき方角をすっと指差す。奇しくもそれは、さっきダイゴさんが見ていたのと同じ方向だ。
 あそこに――あの方角に何があるかは知っている。他でもない、先ほどダイゴさんに教えてもらったばかりの「双子岩」だ。
 彼からもたらされた希望は今この瞬間に確信へと変わり、オレの魂をさらに燃え上がらせる。
 ――行くしかない。声にならない声のままそう呟いて、オレはむげんのふえを取り出した。

 
2022/05/19