柵にとらわれて

 ――嫌な予感がする。あたしは、やけにざわざわと騒ぐ胸をおさえて、つい、その場にうずくまった。
 作業の途中、ベッドの傍らで唐突に動きをとめてしまったあたしのそばに、無二の相棒であるジュカインが駆け寄ってくる。ジュカインは普段きりっとしている目を不安そうに垂れ下がらせて、あたしの顔を覗き込んできた。

「あ……ご、ごめんね。大丈夫だよ。別に、体調が悪いとか、めまいがしたとか、そういうのではなくって――」
「ジュ? ……ジュウ、ジャルン」
「あはは……うん、本当に大丈夫。……なんか、嫌な予感がしちゃったんだよね」

 あたしの言葉を受けて、ジュカインは怪訝そうに眉間にシワを寄せた。
 ひみつきちで暮らすようになって早ひと月。海のうえで自然と身近な生活を送るようになったせいか、あたしは以前よりも第六感というやつが研ぎ澄まされるようになっていた。
 たとえばそれは、なんとなく天気を察知できるようになっていることだったり、ポケモンたちの考えることが、前よりも読み取れるようになっていることだったり。とはいえ、前者はまだしも後者に関しては、みんなで手を取り合い生活するなかで絆が深まっただけなのかもしれないけれど。
 創作物に出てくるような特殊能力に比べたら、ほんの些細で、取るに足らないこと。でも、あたしにとってはその小さな発見が何よりの支えになっている。
 自分が平凡ではない、何かしらの「特別」があるのだと。ユウキに劣るばかりの人間ではないと信じたくて。愚かな夢だとしても、どうにか縋りたくて。まるで藁を掴むような気持ちで、あたしは日々を過ごしている。そんなこと、何の意味もないとわかっているのに。
 ユウキのことを忘れるために離れているはずなのに、結局あたしはどこにいたって、ずっとユウキのことを考えてしまっている。あたしの心の深い深いところに、強くユウキが根づいている。
 まるで、大きな傷として。
 ……まるで、果てしない壁として。
 そして、そう、あるいは――

「でも、今日はなんとなく波が騒がしいっていうか……もしかして、浅瀬の洞穴に誰か来てるのかな?」

 思えば、以前どこぞやかのトレーナーが資源を採取しに来ていたときも、こんな感じだった気がする。
 あたしが言うと、トドゼルガもそれにうなずく。浅瀬の洞穴で生まれ育った彼はやはりここら一帯の変化に敏感なようで、鋭い瞳をひみつきちの入り口のほうに向けた。
 やがて、彼はその目をおおきく見開いてからあたしのほうを見やる。まるで「はやく逃げろ」とでも言いたげな視線に、一気に体から力が抜けた。間もなく立ちくらみまでしてきて、あたしはみるみるうちに立てなくなる。
 うそ、でしょ――あたしの言葉は声になることもなく霧散して、無遠慮なふうにやってくる足音を前に、もう、すべてなくなってしまった。

「――いるんだろ、チイロ。わかってんぞ」

 ――ユウキだ! ひと月ぶりの声を耳に入れた途端、あたしの体は急に汗を吹き出したり、体温を一気に下げたりと大忙しだった。喉はカラカラに渇いて声らしい声を出すことも叶わず、ただうめくような音を出すばかり。

「ぷ……」
「うん……? ああ、おまえ、チイロのプクリンか」

 じょうぶないたで塞いだ通路の向こう、玄関のあたりで二人が話すのが聞こえる。
 プクリンは今日の見張り番であり、入り口スペースのほうでお昼ごはんの準備をしてくれていた。

「なあ、チイロって奥にいる? オレ、どうしてもチイロに会いたくってさ」
「ぷ……ぷゆゅ、うぅ」
「頼むよ。……チイロと、話さなきゃいけないことがあるんだ」

 ユウキの声はひどく切実で、あたしにとってはとてもいやな、ある種の“重み”というものを感じる。
 それは、人の心に強く訴えかけるもの。きっと強い覚悟や目的を持ってここに来たのだろうことが、嫌というほど伝わってきた。
 ……ああ、そうか。ユウキはいつも、こうやって人の心を動かしてきたのだな。
 少しだけ客観に近いところに立てるようになったおかげで、あたしはやっと、そんな当たり前のことに気づく。ユウキは醜い嘘を言わない。あたしと違って。だからこうして誰相手にもむき身の心で向き合うし、その意気にうたれ、みんな彼を好きになるのだ。
 ぎし、ぎしと。じょうぶないたを踏み鳴らす音はまるで死刑宣告のようで、あたしは半ば諦めのように覚悟を決めた。
 ――ああ、もうすぐ。間もなくだ。もうきっと、呼吸の暇もないくらいすぐ、目の前にユウキがやってくる。あたしの心臓を鷲掴みにして、握りつぶすように歩いてくるのだ。
 ユウキは「……久しぶりだな、チイロ」と言いながら、ゆっくりと顔を出した。ひと月ぶりのユウキの表情は、逆光のせいでほとんど見えない。
 何かわかることがあるとすれば、いつもハツラツとしていた声色が驚くほどに静かであって、静寂が耳に痛いことくらいだった。

「元気、してたか? ……なんて、ポケモンと一緒なんだから当たり前か。怪我とかも……してない、みたいだな」
「あ……う、」
「プクリン、昼飯つくってくれてんのかな。お前の好きなモモンのみ、たくさん使ってるみたいだったよ」

 ユウキは、何も変わらないままのすがたであたしに語りかけてくる。
 何も変わらない、ずっと見ていたはずのユウキ。まっすぐで、強くて、勇気があって、賢くて。誰よりも前を見据えていた、唯一無二のおにいちゃん。

「それでさ、チイロ……って、おい――」

 そんなユウキが目の前にいて。あたしのことを、見つめていて――

「ご、ごめ……ごめん、なさ……っ――」

 あたしはなぜか、堰を切ったように流れる涙を抑えることができなくなっていた。
 

  ◇◇◇

 
「……落ちついたか?」

 依然として静かな声が、あたしのことを優しく気遣う。
 であいがしら、急に泣き出したあたしに対して、ユウキはいっさい怒るような素振りを見せなかった。苛立つことも、見限るでもなく、何も言わずに隣にいた。あたしが泣きやむまでずっと、諦めずそこにいてくれた。
 どこにも触れていないはずなのに、横に座るユウキの体温がじんわりと伝わってくる気がする。ユウキのあたたかさで胸がいっぱいになると同時に、否、ユウキの想いで悪いものがすべて押し出されているのだろうと思うくらい、あたしの涙はなかなか収まる気配を見せなかった。
 あたしが喋れるようになるまで、果たしてどれくらいの時間を要したのだろう。何時間もこうしていた気もするし、あっという間だった気もする。

「えっと……ごめんね、急に泣きだしたりして」
「いいよ。お前の泣いてるとこなんて見慣れてるし」

 そんな一瞬の悠久を経ても、ユウキはため息ひとつ吐かずに優しくそう言ってくれる。視線こそ観葉植物のほうに向いているけれど、ユウキの意識や感覚というものが惜しみなくこちらに向かっていることは、痛いくらいにわかっていた。
 ユウキからの関心は全身を刺すようである反面、このうえなく心地良かった。ひどく痛いのに浸っていたい、不思議な感覚を生む。

「それで……その。そろそろ、聞いてもいいかな」

 どくり。ユウキのひかえめな問いかけにあたしの心臓はひときわ大きく波打って、またじわりと汗をかく。
 ……怖い。せっかく綺麗になったあたしの心を再び覆い尽くすのは、恐怖心や不安といった強くて厄介な感情ばかりだ。
 けれど、ここで否定するなんてことは絶対にしたくなかった。してはいけないと、これ以上の不誠実を重ねてはいけないと、なけなしの良心があたしの心を叩いている。
 だからあたしは、ユウキの言葉にただ頷くしかできなかった。

「まどろっこしいのはやだから、単刀直入に聞くぞ。……おまえ、なんでいなくなったんだ。こんなに立派なひみつきちまで作って……いや、ひみつきちはいいんだけどさ。ていうか、いなくなる前、どうしてずっと暗い顔してたんだよ」

 あたしたちのポケモンはみんな、空気を読んで席を外してくれている。あたしたち以外誰もいない、壁向こうのさざなみの音が聞こえてきそうなくらいの静寂が、この空間に横たわっていた。
 体がふるえる。口にしたらすべてがダメになってしまいそうで、心の奥の奥の奥の奥にある何かが、まるで防衛本能のようにぶちまけるをためらった。
 けれど、このままだんまりを決め込むわけにもいかない。この期に及んでの沈黙はまるで重たい罪のように感じられて、あたしは必死に、僅かな勇気を振り絞って言葉をつむぐ。
 逃げたい――けれど、そんなことは許されない。

「――こわかった、から」

 あたしの言葉に、ユウキの肩が一瞬びくついたのが見えた。
 間髪入れずに、ユウキはひどく掠れた声で「何が?」と問うてくる。声色と空気からは動揺の一端が見て取れて、もしかするとユウキもあたしと同じように何かと戦っているのだろうかと、そんな思い上がりを抱きそうになった。

「……全部。全部、ぜんぶ怖かった。マグマ団とアクア団も、超古代ポケモンも、ユウキに全部任せる大人たちも――」

 それから、全部背負って進んでいった、他でもない、ユウキのことも――
 息を呑む気配がする。ユウキの乱れた呼吸音が、耳の横から滑り込んできた。
 けれど、いくら動揺しようとユウキはあたしのように泣いたりしない。ただ静かに、まっすぐに、あたしの言葉を飲み下そうとしているようだった。

「オレの……ことも?」
「そうだよ。――だって、だってだって! あんなの、絶対おかしかったもん……!」

 感極まったあたしは、椅子から立ち上がって叫ぶように思いの丈を吐いた。両の手を強く握りしめて、この感情の波を少しでも逃がそうとしながら。
 喚くようなあたしの言葉は、果たしてユウキの耳にどんなふうに聞こえたのだろう。むき身の言葉。ありのままの感情。それらすべては、唯一無二の片割れには、どういった色に感じるのかな。

「どうして……どうして、ユウキは怖くなかったの? 超古代ポケモンなんてよくわからないものを前にして、どうして逃げ出さずにいられたの? 都合よく手のひら返しする大人たちを、どうしてそのまま信じられたの。あの人たちみんなが嘘ついてたら、罠にはめようとしてたら、ユウキはきっとひどい目に遭って、今頃死んじゃってたかもしれないんだよ!? なのに……なのにどうして、あの人たちを許せたの。どうして前に進んでいけたの。どうして、どうして――」

 ――どうしてホウエン地方を、否、この世界すべてなんて重苦しいものを背負って、それでも挫けずに立ち向かっていけたの――
 涙につまって次げなかった言葉。中途半端に終わった本音。それはみっともなく途切れてしまったけれど、言わずとも伝わっただろうという謎の確信が、あたしのなかには生まれていた。

 
 しどろもどろでめちゃくちゃな吐露は、辺りに目いっぱいの沈黙をもたらした。
 ユウキはうつむいたまま動かない。力の抜けたあたしが隣にへたり込んでも、そのまま、鼻をすすっても。
 しばらくしてからやっと、ごくり、と固唾を飲む気配がして。あたしは視線だけをユウキのほうへ向けて様子をうかがった。
 ユウキは依然として神妙な面持ちのまま、ゆっくりと口を開く。

「……怖かったよ。情けねえけど、あのときは正直、逃げ出したいくらいビビってた」

 ユウキの返答に、あたしは思わず耳を疑う。
 ユウキも、怖かった――? 予想外の答えをうまく咀嚼することができず、無言のまま続きを待った。不意すぎて言葉が出なかったし、なんとなく、口を挟むのがいけないことのような気がしたからだ。

「あのときは無我夢中だったっつーか……弱音なんて吐いてる暇なかったから、そんなふうに見えなかっただけだと思うぜ。全部終わってから急に心臓バクバクしてさ。汗もすごいし、手足だってバカみたいに震えて。……マジで、生きた心地がしなかった。未だに夢に見るくらいだし」
「そうなの……?」
「嘘なんか吐かねえって。……それでもさ、やらなきゃいけなかったんだ。オレがやらなきゃ……オレじゃなきゃ、もう、どうにもならないみたいだったから」

 ユウキは、ゆっくりと手を握りしめる。あのときのことを思い出しているのだろうか。
 あたしには覗い知ることができない未曾有の領域に、今のユウキの意識はあるのだろう。話を聞いたって全然実感なんかわかない、普通の人間なら一生かけても縁がないような世界だ。
 薄い壁ひとつ隔てた先に広がっていたのは、燃え盛るマグマに包まれた光景。もはや呼吸すらままならないであろう、死の間際と言って相違ないような、人智を超えた力の御前へ、ユウキは立ち向かわざるを得なかった。
 他の誰でもいけなかった。ユウキじゃないと。たかだか十二歳の子供に、この世界の命運なんてもののいっさいを背負わされてしまった。
 周りの、愚かしくも力ない人々のせいで――

「けど、みんなの顔を浮かべたら不思議と力が湧いてきてさ。……これなら大丈夫だって、途中からはもうらそれしか考えてなかった。ホウエンとか、世界とか、そんなの頭のなかからほとんど放り出してたよ」

 けれど、ユウキは事もなげにそう言い放つ。
 もともと心が強いのか、それとも、そうならざるを得なかったのか。あたしにはわからない……けれど、なんとなく察することはできる。
 本音をぶつけたおかげで、もしかするとあたしは前よりも、ユウキの心に近づいているのかもしれない。

「――でも、一番に浮かんだのはやっぱりチイロの顔かな」

 かと思えば、またしても思いもよらないようなユウキの言葉が飛んでくる。目まぐるしいそれにあたしはつい目を見開いて、穴があいてしまいそうなほど、ユウキの顔を見つめてしまった。

「……あ、あたしの? どうして……?」

 また「どうして」だ。尽きない疑問に少しだけ気が遠くなりそうになったが、今だけはそれを無視して、じっとユウキの答えを待つ。

「当たり前だろ? オレたち、今までずっと一緒にいたじゃん。そりゃ、一番に『守りたい』って思うよ」

 オレにとってお前は、何よりも大切な妹なんだから――
 ユウキは、眉をハの字にして笑いながらそう言った。
 その笑顔は昔から見ていたそれとまったく変わらなくて、懐かしさを覚えたあたしは強く胸を締めつけられる。やがて押し寄せてきたのは抱えきれないくらいの罪悪感で、息が詰まるような心地がした。一瞬、呼吸の仕方を忘れるほどだ。

「すぐ家に帰ったのも、父さんと母さんはもちろん、お前に会いたかったからなんだ。全部終わったと思ったらさ、なんか、一気に力が抜けちゃって。ぶっちゃけ、父さんと母さんの顔見た瞬間ちょっと泣いたし」
「……でも、あたしは出てこなくて」
「そう。だから、正直ちょっと淋しかったんだぜ。……ちゃんとお前のことも守れたんだって、この目で確かめたかったのにさ」

 ――あたしは今、愕然としている。まるでこの世の常識すべてがひっくり返ってしまったような、眩暈すら起こしそうなほどの衝撃だ。
 ユウキがこんなにもまっすぐあたしを想ってくれてたことを、あたしは今初めて知った。柔らかで、真摯で、優しい愛というものがここにあるのを、この瞬間に確かに見た。
 ……それなのにあたしは、勝手に怯えて、逃げてばかりで。ユウキとは決して相容れないんだと悟ったふうな顔をして、そのいっさいを撥ねつけて、一人でいじけていただけだった。
 あたしが一番、誰よりも強くユウキのことを傷つけていたのだ。
 そんなの――そんなの、あたしが一番最低だ。

「――め、ん」
「え?」
「ごめん、……ごめんなさいっ、ユウキ……ッ」

 考えるよりも先に体が動いていた。あたしは思いっきりユウキに飛びついて、今度こそ声をあげて泣く。
 あたしのなかに巣食う悪いものを――汚くてみにくい最低な気持ちを、すべて流し去るみたいに。とめどなく流れるそれはすぐにユウキの服をびしょびしょに濡らして、みっともないことにした。
 それでも、あたしはとまらなかった。どうしていいか、わからなかった。

「こ、今度はどうしたんだよ……」

 さすがに今回ばかりはユウキも戸惑っているようで、さまよう両手がその動揺を如実にあらわしている。
 あたしに触れることなくうろつく両手が、ほんの少しだけ、さみしかった。

「あ、あたし……ユウキの気持ち、知らなくて。ずっとずっと、勝手にこわがって、最低なこと、ばっかりして……っ」

 あたしのみっともない懺悔も、ユウキはただまっすぐに受け入れる。怒ったり、喚いたり、そんなことはちっともしない。

「……まあ、それは仕方ないだろ。オレだって何も言わなかったし、その、バトルのたびにコテンパンに負かしたりしてたから」
「で、でも――」
「いいから。……嫌われてるわけじゃないなら、オレはそれでいいんだよ」

 さっきとは比べ物にならないくらい、ユウキの存在を近くに感じられた。
 相容れないと思っていた。あたしたちはどこまでも別個体で、双子なんて面倒な柵にとらわれた、血が繋がっただけの他人なのだと、そんなふうに悟ったつもりでいた。たとえ同じ親から同じ日に生まれた二人なのだとしても、結局あたしたちは一緒になんかなれなくて、修復しようのない溝がついにすがたを現したのだと。
 けれど、今になってやっと気づけた。あたしが怖かったのは、ユウキだけれどユウキじゃない。
 ……離れていくのが怖かったんだ。あたしだってずっと、ユウキと一緒にいたかった。どんどん遠ざかっていくユウキが、強くなって、前に進んで、あたしなんて触れることもできないところに行ってしまう、そのことがいやで仕方なかった。
 あたしは……あたしはきっと、ユウキに置いて行かれたくなかったんだ。
 しがみついて泣きじゃくるあたしに、ユウキはやっと手のひらを添える。昔みたいに不器用な手つきで頭をなでて、髪の毛をぐしゃりと乱しながら慰めてくれる。

「……置いてくわけ、ねえだろ」

 力強くユウキがつぶやく。それはあたしに向けてというよりも、まるで自分自身に言い聞かせているように、ある種の誓いにも似た重みを帯びている。

「オレは絶対、お前のことを置いていかないよ。ずっと一緒にいる。……オレが、お前といたいから」

 お前がいない毎日なんて、もう考えらんないよ――
 ユウキは、どこか泣きそうな声でそう言った。とても優しく、降り注ぐようなその声色は、あたしのカラカラに渇いた心を、ゆっくりと癒やすようだった。

 
ずっとやりたかったタイトル(小説名)回収
2022/05/25