愛しい人よ

 沼底に沈んでいた意識が、ゆっくりと持ち上がるような感覚。泥のようにねむるとは言い得て妙といったところで、あたしはもうすっかり熟睡できるようになっていた。
 内容こそ覚えていないけれど、ひみつきちで夜を明かすたび、あたしは夢に囚われ続けていた。あたたかさの裏に淋しさを抱えた、ひと言では言い表せない夢のおかげで、ちゃんと寝ているはずなのに、どうにも眠りに浸りきれないでいたのだ。
 もやもやした睡眠から突如として救われた理由は、やはり、他でもないユウキにある。ユウキがやってきてからというもの、あたしはいっさい夢を見なくなっていた。
 何も覚えていないくせに、泣きながら目を覚ますことがままあった。「しあわせだなあ」とか「さみしいなあ」とか、そんな曖昧でふわふわした感情が残っているくせに、数日に一回は視界をぐちゃぐちゃに滲ませながら目を開いた。湿った天井を見ながら言いようのない寂寞に抱かれ、まるで生まれ落ちたあの日みたいに、涙がとまらなくなったことだって。
 それなのに、あたしを脅かしていた怪物はユウキがやってきた途端すっかり姿を消して、あの頃とは打って変わった安らかな眠りをもたらしてくれている。

 ――変なの。ユウキがやってきたこと以外、なんにも変わっていないのに。

 そんなふうにひとりごちては、一人では何もままならないおのれの弱さに辟易した。
 衝動のままに家を飛び出して、子供だましのひみつきちなんて作って……でも、それすらもすぐユウキに見つかって。どこまでも幼くて拙いあたしの逃避行は、ユウキという存在を加えて、もう既に一年の月日が経とうとしている。
 あたしたちは、パパにもママにも内緒で毎日を共にしていた。たった二人、お互いのポケモンしか知らないお城みたいなひみつきちで、ずっと静かな時を送っている。
 もしかするとユウキが何か言ってくれているのかもしれないけれど、あたしはあれからいっさい実家に近づいていないので、真偽のほどはわからない。ミシロタウンはもちろんトウカシティにすら近づけなくて、結局このひみつきちとトクサネシティを中心に、たまにミナモシティまで足を伸ばすくらい。あたしの行動範囲は驚くほど狭まった。
 ――どうしてこんなことになったのか。わからないと言えばわからないし、納得がいくところでもある。
 本当ならば、今のあたしに家に帰らない理由なんて全くないはずだった。もともとあたしはユウキと距離を置きたくて家を飛び出したのだから、こうしてユウキと和解した今、あの家を避ける必要なんてどこにもない。
 必要はない、はずなのに。あたしはなぜか、名前のない後ろめたさを感じながら、相変わらずこのひみつきちで悩ましい日々を送っている。

「……あれ。チイロ、起きてたのか」

 寝ぼけた頭を動かすために何度か瞬きしていると、ほどなくしてひどく優しい声が投げかけられる。
 ……ユウキだ。ユウキはあたしのベッドとは対角線上の位置に自分のそれを設置していて、今も当たり前のように腰掛けてくつろいでいる。
 ――いつでも家に帰れるくせに。ユウキはあたしと違っていつでもパパとママに会えるし、なんなら双子岩のもう一方にひみつきちを移動させているのに。それでもユウキは毎日こうしてあたしのひみつきちに居座り、我が物顔で生活している。
 どうしてなんだと思いはすれど、それを尋ねる勇気はなかった。今の距離感を壊したくなかったし、万が一にもユウキの機嫌を損ねてしまって、いっさいここに来てくれなくなったりしたら、正直なところ、とてもさみしい。
 二人で一緒に過ごすようになって、あたしはまた昔みたいに、「ユウキがいなくてさみしい」という感覚を取り戻してしまっていた。

「ずいぶんぐっすり眠ってたな。もう昼すぎだぜ?」
「えっ――う、うそぉ……!」

 ユウキの言葉に思わず飛び起きる。枕元のマルチナビを確認すると、たしかに時計はお昼の一時をゆうに過ぎていた。

「あのなあ、オレがそんなつまんない嘘吐くわけ――って、おい。チイロ、おまえ……」
「んぇ……なあに?」
「……寝癖。近年稀に見るひどさだぜ」

 言いながら、ユウキは半笑いでドレッサーのほうを指差す。今にもお腹を抱えて笑い出しそうな彼を尻目に、嫌な予感を覚えながらドレッサーの椅子に座った。深呼吸しながら意を決して鏡を見て――そして、案の定めちゃくちゃになっている髪の毛を見て愕然とする。
 念入りにブラシを入れても大人しくなってくれそうにない、爆発的な寝癖。今まで生きてきたなかで一番だなあ、なんて他人事みたいな感想を抱きながら、あたしはそれを無理やり押さえ込むようにサイドテールを結ぶ。何年も結び続けているおかげか、頑固な寝癖も簡単に丸め込んでしまえた。
 初めてママにサイドテールを結んでもらったのは、確か幼稚園の入園式だったかな。滅多に着れないおめかしをしたあたしをパパはたくさん褒めてくれて、その日からサイドテールはあたしのトレードマークになった。
 尋常じゃなくうねる自分の髪をまとめながら、知らぬ間にずいぶん手際よく結べるようになったものだとぼんやり思う。

「――うん。やっぱ、チイロといえばそれだよな」

 ベッドに座ったままこちらを見守っていたらしいユウキが、どこか感心したように呟く。ひとりごちながら何度もうなずいて、そして、あたしと目があった途端にっかりと笑ってみせた。
 ……昔とおんなじだ。家出前後の情緒がまるで嘘のように、あたしはユウキの笑顔を素直に受けとめられている。
 もう、何も怖くない。ユウキはいつまでもユウキなのだ。今のあたしが思うことといえば、少しだけ大人びたふうな表情に一抹の淋しさを感じるくらいである。
 じっと見られているのがなんとなく気恥ずかしくて、あたしはその空気を払拭するように揶揄するような調子で話す。

「明日はユウキの寝癖からかっちゃおうかな」

 あたしの言葉に、ユウキはきゅっと眉間にシワを寄せた。不満そうな顔であるが、やはり、それも怖くない。

「あのな、オレはおまえと違って寝癖なんかつかねえし……そもそも、おまえよりもオレのほうが先に起きるっての」
「やだなあ、あたしだって早起きくらいできるし……それに、ちゃんと覚えてるんだからね? 幼稚園の頃、ユウキが爆発でもしたみたいな寝癖で起きてきたこと――」
「う、うるせえな! 何年前の話だよ……!」

 すっかりご機嫌斜めになってしまったユウキが、頬を膨らませながらぷいとそっぽを向く。
 こんな何気ないやり取りをするたび、あたしは沈みきった心がすくわれるような感覚をおぼえていた。

 
  ◇◇◇
 

 にどめましてで手をとりあったあの日から――あたしたちはずっと、飽きもせずに一緒にいた。
 一度離れたことでストッパーが外れてしまったのだろうか、ユウキとは以前よりも距離が近くなったような気がする。例えばこのひみつきちにいるときなんかは、お風呂やトイレのとき以外だいたいそばに座っているし、お互いに何か言ったわけでもないのに、それが当たり前となっていた。
 いつからそうなったのかはわからない。もしかすると、知らぬ間にずっと、そうであったのかもしれない。
 けれど、今となっては別段気になるようなことはなかった。あたしにとってのユウキという存在が、今まで思っていたよりずっと、体に馴染んでしまっていたから。
 特に何かをするでもない、けれど、離れることもできやしない。自由なようでひどく不自由な心地の良い距離感は、ひみつきちにやってきてから数ヶ月が経った頃に、突如として変化した。

 ――なあ、チイロ。

 いつも通りにあたしを呼ぶ声が、なんとなく、本当になんとなく、熱を孕んでいるように聞こえた。
 ただの気のせいかもしれない。そういった星のめぐりなだけで、別に何か、特別な意図があったわけでも。
 けれど、切羽詰まったようにも聞こえるユウキの物言いに、あたしの心はまるでメガトンパンチを食らったかのごとく、強く、強く揺さぶられた。

 ――なあに? ねえ、どうしたの、そんな声して。

 極力平静を装ったはずのあたしの声も、数秒前とはなんだか違う響きを持っているようで――言葉の裏の裏の裏に潜む“何か”を、すぐに自覚してしまった。
 ユウキがあたしの問いかけに答えることはなかった。少しばかりカサついた手のひらが、あたしの右手にそっと重ねられたくらい。ユウキの手は燃えているのかと錯覚しそうなほどに熱くて、汗ばんだそれがゆっくりと指を絡めてくる、それだけでもう、あたしの心臓は爆発しそうなくらいに脈打つ。
 そうして、あたしはまるで誘われるようにユウキのほうへと体を撚る。途端、手のひらに負けないくらい熱っぽい視線とぶつかって、もう、いっさいを離せなくなった。
 嗚呼、そうか。ついにそのときがやってきたのだと、あたしの心は目前に迫ってきたそれに歓喜のおたけびをあげているよう。ユウキと過ごす曖昧な日々のなか、どこかで望んでいたであろう瓦解が、ようやっとそこまでやってきたのだから。
 今までぬるま湯に浸かっていたのは、ただ、あたしに勇気がなかっただけ。あたしはきっと、もう随分と前から関係の崩壊を渇望していた。ユウキが――ユウキのことが、ほしくてほしくてたまらなかったのだと、この瞬間に気がつく。
 目を伏せる間際、ユウキがほんの一瞬苦しそうに顔を歪めたのが見えたけれど、その刹那に気をやる余裕なんてなかった。後戻りなんてもうできないと、いよいよ覚悟を決めるのだと。あたしの胸の奥の警鐘が、ずっとずっと鳴り響いていたから。
 無言のままで、その日あたしたちは初めてのキスをした。いつも見ていたユウキの唇が――ずっと目で追っていたそれが、あたしに優しく触れて、すぐに離れてゆく。
 一瞬で消えたぬくもりが淋しくて目を開ければ、間近にユウキの顔があって。でも、その顔は目を閉じる前とは全然違う、知らない男の子のそれだった。
 けれど、決して怖くはない。あの日のような、言いようのない恐怖も拭いきれない淋しさも、何にもやってはこなかった。むしろ渇望の欲がどんどん強まって、思わずあたしからも二度目のキスをしてしまったくらい。
 今日というこの日に、あたしたちはただの双子でない、いわゆる「男と女」になった。
 ユウキとの関係が形を変えてしまったことに後悔なんてしていない。不安も、恐怖も、嫌悪もない。ただひとつ引っかかることがあるとするなら、脳裏にパパとママの顔がよぎって、それだけが苦しくて、切なかった。
 嬉しいのに、苦しくて。どうしようもない感情の濁流に押し流されながら、あたしはユウキに体を預け、声もあげずに泣いていた。

 
  ◇◇◇
 

 初めてのキスを分水嶺にして、あたしたちの間にあった薄氷のような壁はいっさい取り払われたように思う。
 あたしは、自分のことをひどく醜い人間だと自覚している。血の繋がった実の父親に道を外れた想いを抱いて、大好きで優しいママにすら、時おり馬鹿みたいに嫉妬して。こんな汚い人間はずっと苦しみながら生きていくものだと、ユウキとのいざこざも自分への罰なのだと思っていた。
 それなのに、ユウキはこんなあたしですら救って、そばに置いて。ただの双子以上の感情でもって、あたしのことを大切に想ってくれている。今まで一度もそんなふうに言われたことはないけれど、そんなの、そばにいたら痛いくらいにわかるものだ。
 なのに――なのに、やはり醜いばかりのあたしは、ユウキと一緒にいればいるほど心が苦しくて仕方なかった。ユウキのことが愛おしくて、好きで好きで狂いそうなくらいなのに、離れたくてしょうがない。
 おかしいのも、道を外れるのもあたしだけで充分なはずだ。あたしなんかのせいでユウキまでもがあるべき道を踏み外すなんて、そんなことあってはならない。
 ユウキは選ばれた人間だ。なろうと思えば何にでもなれて、やろうと思えばきっと何だってできる。それこそパパをこえる強いジムリーダーだとか、このホウエン地方における次期チャンピオンだとか。ユウキの前には希望に満ちた未来が無数に広がっているはずなのに、あたしなんかのせいでそれらすべてをぐちゃぐちゃに壊してしまっている。
 あたしはそれがひどく苦しいし、悔しいし、申し訳ない。爪弾きにされるのはあたしだけでいいのに。ユウキは、あたしなんか放っておいて、輝かしい道を歩くべきなのに――
 パパだけじゃ飽き足らず、兄相手にすらこんな想いを抱いてしまうあたしは、本当に醜くて、軽率で、ふしだら極まりない女なのだ。「禁断の愛」なんて甘美な言い方してやらない。あたしのこの感情は、本来ならばあってはならないものなのだから。
 ユウキはみんなの希望になり得る。彼は決してあたしだけのものではなくて、みんながユウキのことを慕っていて――だからこそ、あたしなんかと恋人のまねっこをして、みんなの期待を振り払うようなことをするのは、きっと、許されることではない。
 それこそ、あたしが文字通り死んで詫びなければいけないくらいのことかもしれない。

「――ねえ。ユウキは、どうしてこんなにあたしのことを気にしてくれるの?」

 だから、あたしは現状にヒビを入れようとした。あえて関係を壊してやろうと。漠然とした「恋人のまねっこ」という関係をしっちゃかめっちゃかにして、ユウキを困らせようとした。……ユウキに、嫌われようとした。
 こんな女だったのかと。妹として見ていたときはまだしも、女としての側面を覗いた途端に、ここまで粘っこくなるものかと、あたしのことを疎んでしまえばいい。
 嫌いであればあるほど好きになったときの振れ幅は大きいのだと、いつかにテレビで言っていたから。きっと、その逆を行くことだってできるはず。
 あたしなんか――あたしのことなんか、世界でいちばん、嫌ってしまえばいいんだ。

「どうして、って……そんなの、双子なんだから当たり前じゃん」
「え~? やだなあ、あーんなことやこーんなことまでしといて、今更『双子だから』はないでしょ」
「それは――」
「ね、ね。お願い。教えてよ」

 ユウキの太ももに手を乗せて、ゆっくりと、しどけないように身を寄せた。
 めんどくさい女になれ。めんどくさくて、重たくて、言わせたがりの女になればいい。かまってちゃんで、鬱陶しくて、下品で……兎にも角にも、ユウキにとって一番の負担になるように。一番、ユウキが苦しむように。

「ねえ、ユウキ……?」

 気持ち悪い猫なで声だ。ママの観ていた昼ドラに出ていた、どうしようもなく惨めな女と同じ声。
 狙いどおり、ユウキは眉をひそめながらあたしのことを見る。端正な顔立ちが怪訝そうに歪むのに、あたしはちくちくとした胸の痛みと、一種の優越感を抱いていた。
 最近、ユウキはとても格好良くなった。単純にあたしの見る目が変わった、というせいもあるかもしれないけれど、此度はきっとそれ以外の要因もある。ホウエンに来てからもうかれこれ二年が経とうとしているし、丸みを帯びていた頬は少しずつパパに似てきて、表情も精悍なものになってきた。
 ユウキはもう立派な「男の子」だ。その変化を前にすると、往々にして熱っぽいため息が漏れてしまう。お腹の奥がきゅんと震えて、今すぐめちゃくちゃにされたいという、奥の奥に棲んでいる「女」が顔を出してくるのだ。
 かつては置いていかれることを恐れたくせに。今となっては、どんどん異性となっていくユウキを実感するごとに、醜い女の面がちらつくようになってしまった。
 浅ましくて穢らわしいおのれを自覚するたびに、あたしはもう、すぐにでも死んでしまいたくなる。

「……でも、本当にわかんねえんだ」

 ずっと考え込んでいたユウキが、おもむろにそう言い放った。彼の手がゆっくりとあたしのそれに重ねられて、そして、優しく握られる。
 狼狽えているわけでも、言い訳を吐いているわけでもない。ユウキのその目を見さえすれば、それが真実であることくらいすぐわかる。

「今でも、なんか、迷ってる。オレ、このままでいいのかなって」

 ユウキは、視線をあたしの目から足元へ移す。いっさい落ち着きはらったままのユウキは、厚くて硬い手のひらでずっと、あたしの手を握りしめている。
 離さないとか、離れるなとか、どこにも行くなだとか。そんなことを言いたげな手のひらに、強く胸を掴まれたような気がして、その瞬間にあたしはやっと、おのれの愚かな勘違いに気がついた。
 ――読まれている。きっと、あたしの取ってつけたわるあがきなんてユウキには通用しないのだ。ユウキには全部バレていて、あたしが醜いことばかりの、どうしようもない女だってことすら、全部ぜんぶ、わかっている。
 でも、ユウキは、そのうえであたしを――

「――どうして」
「え?」
「どうして……ねえ、ユウキ――」

 あたしの口から出てくるのは、あのときと同じ、疑問の声ばかりだ。
 どうしてそんなに想ってくれるの。どうして、そこまであたしを見ていてくれるの? こんなにも醜くて、穢くて、低劣で、どうしようもないあたしですら抱きしめてくれるユウキ。
 かけがえのない彼のことが、愛おしくて、狂おしくて、その反面で申し訳なくて。奇しくもさっき演じようとした最低な女と同じことをしていることに気づき、あたしは改めて、おのれの気質を理解する。
 ――演じる必要なんてなかったのだ。あたしは、もとより最低な女だったのだから。

「な、泣くなよ……明日までには、ちゃんと言えるようにしとくからさ」

 打って変わって狼狽えたようなユウキは、凛々しい眉をすっかり垂れ下がらせて、あたしの顔を覗き込んでくる。
 ――愛おしい。ユウキのすべてが、あたしは好きで仕方ない。
 けれど――だからこそ、あたしは彼から離れなくちゃ。今度は自分のためじゃなくて、ユウキのために、ここからいなくならなくちゃいけない。

「ちがうの……ごめんなさい、そうじゃないの――」

 ユウキの手を強く握り返す。このやるせない想いを、ひた隠しにするように。
 ぐちゃぐちゃでみっともない感情はすぐ涙というかたちになってしまって、あたしはそれをただひたすらに、溢れさせることしかできなかった。

 
2022/06/02