くらやみに堕ちるような

「今日、一回家に帰るよ。そろそろ顔見せときたいから」

 オレがそう言ったとき、チイロは一瞬淋しそうにしながらも、すぐに笑って頷いてくれた。
 その笑顔に胸のざわつきを覚えたのは確かだけれど、あまり過干渉になっていてもいけないと思い直して、素直にチイロへ別れを告げた。また明日来るからと言えば、ただ静かに「ばいばい」とだけ返ってきた。
 本当ならチイロも一緒に連れていきたいのだけど、なんとなく実家方面を避けているようだったので誘うのはやめにした。ただでさえひみつきちに居座って好き勝手やっているのだから、少しくらい自由にする時間もないとチイロのほうが滅入ってしまうだろう。
 ここに座っていることも、ただの双子ではない、屈折した関係を持ちかけたことも、もしかするとチイロにとって負担になっているかもしれないから。
 だからこそ、たまには離れる時間をつくるべきだと考えたのは入り浸り始めてすぐのことだ。月に二回ほど家に帰り、父さんや母さんに顔を見せるかたわらで、二人がチイロに対してどう思っているか、どんなふうに考えているのかをそれとなく窺う。
 もちろんその結果をチイロに伝えることはなくて、ただ単にオレが知りたいだけのこと。……父さんも母さんも、おまえのことをずっと気にかけてるよって。オレと一緒にいることも察してるみたいだって、そんなことを言ったって、きっとチイロは困るだけだろうから。

 色々に思案を巡らせながら、オレは久しぶりの母さんの料理に舌鼓をうち、ふかふかのベッドに体を沈めた。
 近頃はプクリンの料理の腕も上達していて、たまに下手な人間よりも立派な料理を出してくれたりするのだけれど、さすがに長年親しんだ“おふくろの味”には勝てない部分がある。こういうとき、やはり母さんのご飯はオレにとって一番なのだと実感できる。
 そういえば、このあいだチイロがつくってくれたモモンのタルトは母さんのそれとまったく同じ味がしたか。
 ――また、食べたいな。口のなかにめいっぱい広がるモモンの甘みを、再び感じたいと思った。甘ったるさと爽やかさ、両方兼ね備えたあのタルトは疲れた体にしみるのだ。
 そして、あの甘味を咀嚼するたび、幼い頃の記憶が次々と蘇ってくる気がして――思い出補正という部分でも、オレにとっては大切なデザートだった。
 もちろん、それはチイロと一緒に食べるからこそ、なのだけれど。
 ただ、オレの思うモモンのタルトが、母さんとチイロ、果たしてどちらの出してくれたものなのかと――そんなことを考えているうちに、オレは久しぶりの安心感からすっかり寝入ってしまっていた。

 
  ◇◇◇
 

 目を覚ましてすぐ、オレはおのれの行動すべてを後悔した。
 覚醒したばかりのオレを襲ったのは、言語化できないような目いっぱいの淋しさ。胸の奥にぽっかりと穴があいたような、大切なものをどこかに落としてしまったような感覚。いわゆる喪失の痛みというべきか、言葉にするのも億劫なほどに、それはオレの心を踏みにじるかのごとく痛めつけた。
 ゆっくりと、呼吸よりもおだやかに身を起こす。物音はしない。人やポケモンの気配もない。オレの部屋にあるのは、いくつかのモンスターボールと、見慣れた家具や、ぬいぐるみだけ。
 おもえばいつかもそうだった。チイロの初めての家出のときも、確かこんなふうな夜明けを見た。ひたすら静かで、胸が痛くて、苦しさと共に襲う違和感。心中をぐちゃぐちゃに掻き乱してくるその感覚を、オレはまるで昨日のことのように思い出せる、気がする。
 ――とはいえ、今回はあのときの非じゃないくらいの喪失感が、オレを襲っているのだけれど。
 薄暗い部屋をぼんやりと眺めていると、やがてその喪失の怪物にすべてを食われたような気持ちになる。込み上げる吐き気や恐怖、不安、それらすべてがオレの体を締めつけては食い荒らすようで、反射的にえずいてしまった。
 えずいた拍子にこぼれた涙はとどまる気配を見せず、ただはらはらとオレの頬を伝っていく。男のくせにみっともない、情けないと思うのに、この涙を止めるのが困難なことを、オレは本能的に理解していた。
 涙の出処がどこなのか。なぜ、こんなふうに胸を揺さぶられているのか。確かめずともわかっていた。この体に流れる血潮の一滴一滴が、すべてをオレに伝えてくる。

「……なんで。なんでだよ、チイロ――」

 書き置きなんかなくてもわかる。ひみつきちまで行かずとも、きっとがらんどうになっているだろうあの優しい洞穴なんて見なくとも、オレにはもう、わかっている。
 チイロはきっと、もうどこにもいないんだ。
 

2022/06/04