種なきところに芽など出ず

オリ地方要素あり
 


 

 頬をくすぐる風は花の香りをまとっていて、自然と笑みがこぼれてしまう。香しくて爽やかなこの町の風が、あたしはとても好きだった。
 ここは、カバタ地方モレットシティ。地方最大の病院があるこの町は、シャスラの花畑と呼ばれるサファリゾーンにポケモン保護区が併設されているなど、人やポケモンの心身に寄り添う優しい場所である。ゆえに色んな地方から救いを求めてやってくる人やポケモンが後を絶たないのだと、ここに辿り着いてしばらくした頃に教えてもらった。
 この町の人々は本当に優しくて、あたたかくて。行き場をなくしたあたしを快く迎え入れて、気づけば居場所まで与えてくれた。特に、この町出身のタイプマスター――他地方で言うところのジムリーダーである――姉妹と年が近かったこともあり、彼女らを筆頭にして、ひときわ親切にしてくれたように思う。
 ほんの少し前まではその姉妹がタッグでノーマルタイプとエスパータイプのタイプマスターをしていたが、姉はアローラ地方へ勉強に、妹はアイドル活動に本腰を入れたいという理由で、あっけなく解任となってしまった。
 そして、姉であるノーマルタイプマスターの後任として推薦されたのが、幸か不幸か、ノーマルタイプを専門とするジムリーダーを父に持つこのあたしだった、のである。

「ちえっ、やっぱチイロさんは強いなー。まーた負けちゃったよ」
「あはは……でも、前よりはうーんと強くなってたよ。キノココとのコンビネーションもどんどん良くなってるし……その子がキノガッサに進化したら、いよいよわからなくなると思うな」
「ほんとにー!? ……っし、じゃあもうちょい頑張ってみよっかな」
「ぷ、ぷゅ!」
「ふふ、プクリンも待ってるってさ」

 小さくてむじゃきなチャレンジャーは千切れそうなほど手を振りながら、モレットシティの草原を駆けてゆく。あたしの隣に立つプクリンも小さな手を負けないくらいぶんぶんしていて、愛らしさに思わず吹き出してしまった。

 やがて見えなくなった背中はあふれるほどの希望に満ちていて、太陽よりも眩しく見えるそれに、反射的に目を眇めてしまう。
 彼はここしばらくあたしに挑戦し続けてくれている男の子で、かつては例のエスパータイプマスターにひどく憧れていたのだそう。ゆえにはじめはあたしのことも気に入らなかったようだが、最近になってやっと気持ちよくお話してくれるようになった。
 ただ、彼の連れているキノココを見ると、なんとなく昔のことを思い出して――少しだけ、胸が苦しくなってしまう。
 カバタ地方はジョウトやホウエンから遠く離れた場所にあるせいか、様々な面でずいぶんと風変わりなように見える。それこそ、この地方に「ジムリーダー」という役職が存在しておらず、代わりに「タイプマスター」という独自のシステムが敷かれていることが顕著だろうか。
 ほかにも、この地方では人とポケモンの距離がひときわ近いこともあり、目線の近さや、自分たちは等しく同じであるという意志を表すため、相棒ポケモンと同じような格好をするという少し変わった風習もある。どこか遠くの人工島で普及しているらしいマジコスという文化にも似たそれは、たしかにこの地方に深く根づいているもののようで、思えば前任の姉妹もそれぞれの相棒であるピクシーやランクルスになぞらえた髪型にしていたか。
 元々は金髪なのを思い切って染めたんだよ、なんて話を聞いたときは、思わず声をあげたものだ。
 あたしはまだその文化に馴染めていないので、ジュカインとのお揃いはまだなのだけれど――そろそろ何かしらやってみてもいいかな、という気持ちだけなら沸々としている。
 緑色のものを身に着けてみたり、はたまた髪を染めてみたり。たしかに、ジュカインのことを想いながらあれやこれやと考えるのは、他にはない楽しさがある。

「……緑かあ。緑といえば、ユウキが好んで使っていたリュックも緑だったな」

 なんてことないことのくせに、ついつい会えなくなって久しい片割れのことを思い出してしまった。
 あたしは高い空を仰ぎながら、細くて長いため息を吐く。

「ぷ……」
「あはは、大丈夫だよ、プクリン。……心配かけちゃってごめんね。少し、昔のことを思い出しただけだから」

 あたしのことを案じてくれる、優しいプクリンを抱きしめる。ふわふわで、柔らかくて、すっかり心が安らいだ。

 ユウキのもとを離れてから――ホウエン地方を飛び出してから、もうそろそろ五年の月日が経とうとしている。
 ……結局、あたしは逃げたのだ。ユウキという大切な存在から、彼の人生をめちゃめちゃに壊してしまうという、その圧倒的な痛みと罪から。
 あたしにはもう、耐えられなかった。ユウキという未来ある男の子を、あたし一人のせいで暗闇に突き落とすことも。そのせいで、パパやママを悲しませることも。
 あたしだけならどうでもいい。あたし一人が抜けたくらいの穴なら、あたしだけが堕ちるのであれば、きっとどうにだってなる。
 けれど、あたしとユウキが一緒になれば、パパとママは二人ともを一気に失うことになってしまうのだ。
 兄と妹が揃って道を踏み外す事態に陥ってしまうなんて、そんなことあってはならない。パパもママも立派な人だ。二人がとても真っ当で尊敬すべき人間だと、あたし胸を張って言える。親として見た二人は完璧で、まっすぐで、かくあるべきすがたが服を着ているようだった。少なくともあたしの目には欠点なんて見えなかったのだから、子供に対して影を見せずにいられるという、それだけでも立派なことであると思う。
 だから……だからこそ。手塩にかけて育てた子供の、その両方がこんなことに身をやつすだなんて、そんな現実を形にしたくなかった。ユウキも、パパもママも、お手本みたいな家族として生きていくべきだと思ったから。
 そう、決めていたはずなのに。

「あたし……今でも、ずっとずっと迷ってる」

 プクリンの羽毛に埋もれるくらいの声量で、あたしはそう独りごちた。
 決意を固めていたはずなのに、結局あたしは何年経っても未練たらたらなまんま、ずっと後悔をし続けている。こんな遠くに来ても未だにユウキのことばかり考えているし、ユウキのことが恋しくってたまらないで、一人で枕を濡らしている。時には孤独に耐えられなくて、哀しみと淋しさを慰めてくれる誰かに縋ったこともある。
 自分で選んだ身勝手な道のくせに。何も言わないで、すっかり消えてしまったくせに。あたしはいつになっても癒えやしない傷を抱えながら、毎日のように血を流し続けていた。

 
  ◇◇◇
 

「そういえばチイロさん、聞いたことありますか? すっごく強いチャレンジャーが来てるって話」

 それは、なんてことない昼下がりのティータイムのことだった。味わい深いロズレイティーを満喫しているおり、隣町を拠点にするくさタイプマスターのセッテラさんが、唐突に話を振ってきたのだ。
 彼女は前任のノーマルマスターと幼なじみであるらしく、そのよしみもあってかあたしのことをよく気にかけてくれていて、姉妹がいなくなった今でもなお、あたしと仲良くしてくれている優しい人だ。

「すっごく強いチャレンジャー……ですか?」
「そう。なんでも、ずいぶん遠い地方からやってきた人らしくって……ほんと、鬼のように強いんだとか」

 相棒のノクタスにお茶菓子を手渡して、セッテラさんはまるいメガネの向こうにある双眸をこちらに向ける。その瞳に映っていたのは怪訝そうな顔のあたしと、ひらひら舞う花びらだ。

「で、その戦い方がまさに鬼神のごとくというか……タイプマスターの皆さんの間で噂になってるんです。『強さを追い求める男』のようだって」
「え――」

 強さを追い求める男――その肩書きには覚えがあった。何度も何度も聞いた言葉。ずっと、ずーっと憧れていた、唯一無二のパパのものだ。
 いや、そんな、まさか。そんなこと、まさかあるわけがない。こんなのただの偶然だ、ありえるわけがないとおのれに言い聞かせて、あたしはセッテラさんの言葉を待つ。

「私はまだお会いできてないんですけど……皆さんが言うには、今日明日あたりに私たちのところへ来るんじゃないか、って」

 だから、チイロさんも気をつけてくださいね――セッテラさんは、くさタイプのエキスパートらしく優しい声でそう言った。
 彼女は自分よりも他人のことを優先して考えられる慈悲深い人なのだと、ここしばらくの付き合いで骨身にしみて感じている。このカバタにやってきたばかりの頃からたくさんお世話になっているのだから、いまさらと言えばいまさら、だが。
 だからこそ、動じてはならない。今あたしが取り乱せば、無用な心配をかける羽目になる。
 ゆえにあたしはなんとか心を落ち着けて、平静なようにして口を開いた。

「そ……その、セッテラさん」

 知りたくない。認めたくない。向き合いたくないと叫びはすれど、しかし、あたしの両手は真実を手繰り寄せようとまっすぐ伸びてゆく。

「その人の手持ち……とか。一匹でもいいんですけど、何か聞いていたり、します?」

 そうであれ、と願う気持ちと、やめてくれと許しを乞いたくなる気持ち。正と負がないまぜになってうるさいこの心は、きっと彼女の返答によってはいっさいを感じなくなるのだろう。
 セッテラさんにも、ノクタスにも決して気取られないように。あたしは静かに固唾を呑んで、彼女の答えを待った。

「そう、ですね……確か、エスパータイプのドラゴンを連れていた、と聞いてます。このあたりではあまり見ないポケモンで……ええと、何だったかしら。前任のチャンピオンがたまに連れていたと思うんですけど」

 エスパータイプのドラゴンに、ひとつだけ心当たりがあった。
 頭を悩ませるセッテラさんへ、あたしは恐る恐る口を開く。

「――もしかして、ラティオスってポケモンですか?」

 否定をしてほしい、なんて。そんなの、叶いっこない願いだ。

「――ああ、それ! そのポケモンです! そういえば、チイロさんが以前お住まいになっていたホウエン地方で確認されていたポケモンでしたっけ」

 ご存知だったんですね! 謎が解けてすっきりしたのか、セッテラさんは晴れやかな笑みを浮かべて何度も頷いていた。
 打って変わって、あたしはそれ以降に彼女が何を言っていたのか、ほとんど覚えていないのだけれど。
 

ちょっと長くなりすぎたので二本に分けました
2022/06/07