絆をむすんだ

 結局、昨夜はうまく寝つけなかった。柔らかなベッドのうえで何度も寝返りを打って、目を閉じた先にある、混沌とした世界に身を委ねたりもしたけれど、当然その混沌があたしを助けてくれることはない。むしろあたしの意識をどんどん黒く渦巻かせて、目の下にみっともないクマをつくってくれた。
 思えば、初めての家出の日もあんなふうにベッドのうえでぐずぐずしていたっけ。まるで何もかもに見離されたような不安や恐怖、猜疑の心に包まれて、どうすることもできなかった。
 あれからもう七年ほどが経つけれど……果たして、今のあたしはどうだろう。あの頃よりは大きくなった。少しだけ大人に近づいた。タイプマスターなんて役職に推薦してもらえるくらい、ポケモンバトルも強くなった。まだまだ新任ではあるけれど、ちょっとずつ町の人にも慕ってもらえるようになった。
 しかし、どれだけ大きくなっても、あたしの心のなかに棲む混沌はいなくなっていないように思う。きっとこいつは、あたしが死んでしまうその日まで消えることはないのだろう。
 もしもこの黒ずみを消し去る方法があるとしたら――それはきっと、この隣に唯一無二のあの人が立ってくれること、くらいかもしれない。

「でも……そんなの、無理じゃんね」

 だって、そもそもすべて自分で捨ててしまったものなのだから――あたしの身勝手な独り言は、爽やかな薫風によって呆気なく霧散する。
 モレットシティの風はひどく優しい。この町は、ワカバタウンらシダケタウンのようにとてものどかで、おだやかだ。空にはハネッコの群れが飛んでいるし、遠くに見えるシャスラの花畑ではたくさんのポケモンが駆けまわっている。郊外に預かり屋さんがある都合もあってか、生まれたばかりのポケモンだってあちこちで見ることができた。
 ここには――この町には、あたしが守るべき者たちが、どこを向いても存在している。
 モレットシティにはたくさんの“いのち”があふれているのだ。緑豊かなこの地方に生を受け、穏やかな風を受けて育ち、そして、ゆっくりと一生を終える。あたしが投げ出しそうになったそれを、みんなが精いっぱい全うしようとしている。
 ゆったりとした時が流れているこの地方で。人を癒やすはずのこの町で、どうしてあたしはこんなにも、何かに追い立てられ、責められるように感じているのだろう。まるで綱渡りでもしているような危うげなバランスで、今日もあたしは生きている。
 とはいえ、どうしてこんなことになってしまうのか、何故なのだろうと思いはすれど、なんとなく検討はついていた。

「あたしの“いのち”は――あたしの一生は、きっと、あたし一人じゃ保てないんだ」

 離れてみてやっとわかったこと。否、本当はずっと前から薄々察していたこと。あたしはとても弱い存在で、たった一人で上を向いて歩いていけるほど、笑って過ごせるほど、真っ当で立派な人間ではなかった。
 離れれば離れるほど恋しくなった。心は毎日のように泣いていて、何度も何度も帰ろうとした。大好きなあの人のところへ。大切な片割れの元へ。けれど、彼の未来や両親の面子を想い、郷愁や後悔をすべて押し殺した。
 ……勇気がなかったんだ。今さら帰って責められるのが怖くて、今度こそ見放されたのであろう事実を受け止められる自信がなかった。
 誰かに寄生しないと――彼という存在に依存しないと生きていけないほど不甲斐ない自分を、許してもらえると思えなかったから。

 あたしは、かつてパパに後ろめたい想いを抱いていた頃、血縁をただの柵だと思っていた。
 パパがママと出会わなければあたしたちは生まれていないけれど、その理由だけで簡単に片づけられるほど、あたしにとって単純な問題ではなかったのだ。
 けれど、あたしはパパだけでは飽き足らず、いつしかユウキに対しても似たような想いを抱くようになり、再び苦しみを背負うことになるのだけれど――しかし、その過程でひとつだけ、考えが変わった部分もある。
 一卵性双生児と二卵性双生児には、越えられない壁がある。一卵性は文字通りひとつをふたつに分かちたようであるけれど、二卵性は所詮別個体で、前者ほど特別ではなく、言ってしまえば同時に生まれた兄弟のようなものだ。
 それでも、あたしとユウキのあいだには何物にも代えがたい、代えることなんてできない確かな絆があった。ひみつきちで過ごした二年の月日で、あたしたちは目には見えない、けれど強い結びつきを得た。
 あたしたちには、誰にも触れられない確固たる繋がりがあったのだ。
 ゆえにあたしは、かつて「柵」と呼んだそれを、今ならば「絆」と呼ぶことができる。

「――会いたいな」

 それは、口をついて出た言葉だった。
 思えば思うほどに、会いたいという感情が溢れ出る。ユウキのことが恋しかった。何年も蓄積した想いが、まるで爆発したかのようなだくりゅうを生み出す。とめどなく流れいづるそれは、今にも駆け出してしまいたくなるような激情をあたしにもたらした。
 まるで化学反応でも起こすかのごとく、あたしの心は嵐さながらに暴れ狂い、そして、その爆発こそがきっと――

「オレも会いたかったよ」

 彼という存在が近くにいる、何よりの証左であった。
 背後からかけられたその声は、長らく聞いていなかったくせに、ひどくこの耳に馴染んでいる。
 あたしはいっさい振り返らないで、静かにくちびるを震わせた。

「……どうして、ここにいるのがわかったの?」

 あたしの声はみっともなく震えていて、花畑を通る風に流されそうなほどか細い。
 か細くて、小さくて、聞き取れるかすら怪しいのに。背後に立っているその人はいっさい聞き漏らすことなく、おだやかに言葉を返してきた。

「必死で探した。あのとき……おまえが一回目の家出をしたときより、何倍も頑張ったんだぜ」
「でも……まさか、こんなところまで」
「そんくらい会いたかったんだ。……ほんとに、会いたかったんだよ」

 さくり。静かに、けれど確かに草を踏み鳴らす音がする。まるでその背中を押すように、彼が携えていたと聞いた、ラティオスのなきごえも聞こえた。
 やがてその気配はすぐ後ろまでやってきて、あたしが何かを言う前に思いきりこの身を抱きしめてきた。背中から伝わるぬくもりが、あたしの心の奥にある、ひどく柔らかいところを鷲掴みにする。

「やっと、見つけた……」

 噛みしめるような声色。喉の奥から漏れたであろう言葉は、一瞬で手中におさめられたあたしの心を、これでもかと揺さぶってくる。

「おまえがいなくなった朝、文字通り愕然とした。まるで死んじゃったみたいに胸にぽっかり穴が空いて、ほんと、しばらくは何にも手につかないくらいだった」
「ご、ごめ――」
「でも、もう絶対離さない。どこにも行かせない。なあ、チイロ――」

 もう、オレの前からいなくならないでくれよ――
 悲痛な叫びが、あたしのすべてを強く刺す。痛いのか、嬉しいのか、哀しいのか、心地よいのか、わけもわからないまま、ほろほろと涙がとまらない。
 ――ユウキ。ちいさく名前を呼ぶ。何年もずっと呼びたかった、世界でいちばん大好きな名前だ。
 あたしの声に反応したユウキは、優しくもどこか強引に、あたしのことを振り向かせた。突然視界に広がるユウキの顔はもうすっかり見上げるくらいのところにあって、五年という月日をこのうえなく感じさせる。
 あの頃とは比べ物にならないくらい、顔つきも精悍になって、以前より何倍もパパに似てきたように思う。その面影に焦がれるようなことこそないが、しかし、脳裏によぎるのは両親のこと。あたしのみならずユウキまで出てきてしまったとなっては、二人の心労はいかがなものだろうかと――
 あたしが思案を巡らせていると、ユウキは口元だけでうっすら笑う。

「おまえが今なに考えてるか、当ててやろうか? ……父さんと母さんのことだろ」
「え――」
「チイロが考えてるほどじゃないと思う。多分、二人とも気づいてたから」

 ユウキの言葉に、あたしは思わず目を瞬かせた。その表示に散った涙をユウキはそっとぬぐって、「相変わらず泣き虫だな」なんて軽口を叩く。

「こんな関係になってることまでは、さすがに知らないだろうけど……それでも、オレがチイロと一緒にいたのは察してたと思う。……それもそうだよな、急におまえの話をしなくなったんだから、怪しく思うのは当たり前だよ」

 ……結局、子供のやることなんて親にはおみとおしなんだよな。
 言いながら浮かべた笑顔は、やはり記憶と変わらないハの字眉。あたしの大好きな顔だ。この顔を見ると胸がすぐに苦しくなって、その出どころは愛おしさと、それから、消え失せない罪悪感や、やるせなさ。
 会えて嬉しいと思う自分と、また繰り返してしまったと嘆く自分。あたしはまた、ユウキから大切なものを奪ってしまった。倫理とか、家族とか、居場所とか、それから、それから――

「でも、ここじゃあユウキの夢、叶えられないかもしれないよ。パパよりも強い、最強のジムリーダーになるって」

 ユウキから何度も聞いた話。ずっとずっと憧れていた、唯一無二の大志。一時期は口癖のように「父さんより強いジムリーダーになるんだ!」なんて息巻いていて、その夢をあたしも応援していた。ユウキなら絶対なれるよって、世界でいちばん強いジムリーダーになれるんだって、ただ純粋に信じていた。
 でも、ここじゃあその夢は叶えられないかもしれない。ユウキが大切にしていたものを――

「それに関しては問題ない。ほら、今エスパーマスターが空席なんだろ? オレにはこいつもいるし、そのために何匹か新しいポケモンもゲットしたんだぜ」

 言って、ユウキは傍らのラティオスに目配せする。ラティオスはくるりとその場を飛びまわって、あたしにその存在をアピールをしてきた。
 アイコンタクトひとつだけでも、二人のあいだにある強い結びつきを感じることができる。

「リーグ協会の人にも話してあるんだ。オレがすべてのタイプマスターに勝てたら、エスパーマスターに就任させてくださいって。叶えたい夢があるって話したら快諾してくれたよ」
「そ、そんな――」
「先代もノーマルとエスパーでタッグだったらしいし、それこそちょうどいいだろ。……なあ、チイロ」

 ユウキの瞳は、すぐに熱い闘志を宿し始めた。燃えるようなその瞳。かつて何度も見てきた、パパとそっくりの、強い意志を感じさせる眼だ。

「オレたち、二人で“最強”を目指そうぜ。オレはオレ一人じゃなくて、おまえと二人で最強になりたい」

 言いながら、ユウキはあたしのことをキツくキツく抱きしめる。抱きしめられて改めてわかるのは、あたしたちがもうすっかり“男”と“女”になってしまった、ということ。
 ――体があつい。ユウキの体温や熱意が直に伝わってきて、あたしまで熱っぽいため息が漏れた。
 もう、一歩も動けない。逃げることも、いなくなることも、もう絶対にできやしない。ユウキのいない五年間は自由だったけれどひどく淋しくて、思えば思うほど物足りなくて、抱えきれないほどの空虚にのしかかられながら海を越えて、この大地にたどり着いた。
 けれど、どこまで逃げたってあたしの魂はユウキを求めて仕方ないし、ユウキのことを忘れた日なんて一日たりともなかった。
 そんな状態で再会して、こんなふうに求められて――果たして誰が、すべてを撥ねつけられるというのだろう。
 あたしはもう一生、ユウキのそばを離れられない。そう、確信せざるを得なかった。

「あの日言えなかったこと、言ってもいいかな」

 ユウキの言う“あの日”がいつなのか――そんなこと、聞かなくてもすぐにわかった。
 あたしが消える前日に吐いた、浅はかな問いかけがあった。ユウキに嫌われようなんて愚考の末に出たそれが、彼に何かしらの傷を与えていることを、今になって理解する。
 今あたしのなかにあるのは、ユウキに傷をつけた罪悪感と――今から彼が伝えてくれるであろう言葉に対する、浅ましい期待だ。
 あたしは、ユウキに決して気取られないよう喉を鳴らして、その言葉をひたすらに待った。

「好きだよ、チイロ。オレ、おまえのことが好きだ。妹としても……一人の女の子としても」

 ――だから、もう絶対どこにも行かないでほしい。これからずっと、ずーっと二人で一緒にいよう。おまえのいない毎日なんて、もう考えたくもないんだ――
 ユウキの心からの言葉。何よりもの想い。呼応するように胸の奥からあふれてくる気持ちは、涙と一緒に、溜め込んだそれをどんどん放ってゆく。
 あたしはユウキの背中に腕をまわして、力いっぱい抱き返す。ずっとこうしたかった。ずっとずっと、こうやって、ユウキのぬくもりを感じたかった。
 本当は――本当なら、離れたくなんてなかった。

「あたしも……あたしも好き。ユウキのこと、誰よりもいちばん大好きだよ。ごめんね、勝手にいなくなったりして」
「チイロ――」
「ユウキのためにならないと思ったの。あたしがいたら、ユウキはきっとダメになる。大切な夢も、進むべき未来も、全部投げ捨ててしまうんじゃないかって、怖くて」
「……そんなの、チイロに比べたら」
「わかってる。でも、ユウキがそう思うのと同じくらい、あたしはユウキに前を向いて生きていてほしかったの。ユウキはみんなの光で、太陽みたいな人だと思ってたから」

 ユウキは、世界のまんなかに立っているべき人。脚光を浴びて、みんなに愛されて、困難も悪意もすべてを打ち砕いていけるヒーローにほかならない。
 でも――

「……やっぱりあたし、悪い女だな。ユウキには真っ当に生きていてほしいなんて言っといて、ユウキが全部捨ててあたしのところに来てくれたのが、バカみたいに嬉しいんだ」

 ユウキの腕に身を預けながら、あたしはゆっくりと目を閉じる。落ちつく香りと、馴染む体温。あたしのいちばん好きなもの。愛してるとか、大好きだとか、そんな言葉じゃ足りないくらいの激情が、この胸のなかで膨れ上がる。

「ありがと、ユウキ。あたし、もう絶対どこにも行かないから――」

 だから、こんなあたしのこと許してね。これからはもう、絶対離れないから――
 あたしはぐっと背伸びをして、ユウキの薄いくちびるに優しくキスをする。
 その瞬間、まるであたしたちを祝福するようにラティオスが宙を舞い、モレットシティの桃色の花びらが、あたりを舞い踊っていた。

 
これで完結です。このたびはおつきあいくださってありがとうございました!
2022/06/08