綻ぶ笑顔と恋の花

 アッシュが駆けつけたとき、そこにはもはや惨状と言っても差し支えないような空気が満ち満ちていた。
 母親の静止も虚しく泣き叫ぶ幼い少女。顔には出ないがおろおろと慌てふためくウィノナ。2人を交互に見比べては頭を下げたり子を叱ったりする母親。
 きっとアッシュが現れなければ永遠にも等しい痛みが訪れていただろうそこは、ガスパールの城下町にある景観豊かな噴水の前であった。結婚して間もない頃はよく手をつないで散歩に来たなと、アッシュはもう何年も前の初々しかった2人に思いを馳せる。そういえばあの頃のウィノナはきょろきょろと物珍しそうに辺りをよく見渡していて――なんて、場違いな追想に身を投じそうになったおのれをアッシュはキツく律した。今はそんなことを考えている場合ではないと足元で顔をぐちゃぐちゃにしている少女を必死に宥めすかす。子供の扱いに慣れた彼は城主夫妻を前に取り乱している母親よりも早く少女の涙を止め、彼に抱き上げられて噴水のまわりを歩く頃には、少女にも笑顔が戻っていた。
 そうして、腰からぽっきり折れてしまうのではないかと思うほど勢い良く頭を下げ続ける母親に手を振って。わかりづらいが意気消沈しきったウィノナを連れて城に帰ったのが確か……一週間ほど前のことか。
 このときのことが身にしみているのだろう、あれからウィノナはアッシュの背中に隠れる……というか、数歩後ろを歩くことが多くなった。曰く前を歩いてまたあんな悲劇を起こしたくないらしいのだが、どうやら彼女の決意は非常に頑固であるようで、アッシュが「僕がいるから大丈夫だよ」と手を引いても決して折れることはなかった。
 ウィノナにとっては大惨事かつ思い出したくない記憶だろうが、アッシュからすれば新婚当初を思い出すいいきっかけとなったわけで。この一週間、なんとなく新婚気分に立ち返って彼女に接してみるものの、やはり機嫌が直るような兆しは見えなかった。意志が強いと言えばそうだが、ここまで頑固なのはいささか困りものである。
 けれどもさすがにこのままでは公務にも日常生活にも支障を来してしまいそうなので、渋い顔をする彼女をなんとか引っ張って噴水広場に来たのが今日、だ。
「ここの風はいつも爽やかで気持ちいいね。ずーっとこのままでいてほしいな」
「そうね……うん、たしかに。私もここは好きよ。あなたとの思い出がたくさんあるもの」
「本当に? 嬉しいな。僕、ここに来るたび思い出すんだ、君と結婚した頃のこと」
 はじめこそ神妙な面持ちをしていたウィノナだが、アッシュと話すうちにだんだんといつもどおりの彼女の姿を取り戻していたようだった。
 ウィノナはアッシュといるときには冷徹な顔を裏へと返し、たったひとりの夫を愛する少女のような顔をする。アッシュはこの顔が好きだった。きっとそれは新婚どころではない、出会った頃すら思い返せる変わらない姿であったから。初恋を追い続けてここにいる2人は、きっと今でもお互いのなかに初恋の面影を見るし、毎日のように恋を繰り返しているのだろう。
 そうして思い出話に花を咲かせていたおり、唐突に口をつぐんだウィノナにアッシュは首を傾げた。寄り添いながら噴水を眺めていた、その目線をウィノナのほうへ向けてみると、彼女は石にでもなったかのように動かなくなっている。かろうじて下に向いている視線だけはわかったのでその先を目で追ってみると、幸か不幸かそこにいたのは先日ウィノナを見て大泣きした少女だった。
 ――おねえちゃんこわい。少女はそう言って泣き出してしまったのだと、あの日の帰路で聞かされた。確かにウィノナはあまり表情が動かないし、女性にしては上背もあって顔立ちも厳しい部類に入る。ゆえに幼い子供に恐れられるのは予想の範疇といえばそうなのだが、よもやここまで根深い傷だとはさすがに思っていなかった。
 これはまずい……アッシュは直感的にそう悟る。どうにかして助け舟を出さんと口を挟もうとした瞬間、予想外にも足元の少女はハツラツとした声をあげた。
「ウィノナさま、ほんとうはすっごくかわいいんだね」
 花が綻ぶように告げられた賛辞。少女はぺかぺかと眩しい、おそらく彼女が本来持っているものであろう笑顔を浮かべてウィノナのことを見ていた。
 ああ、そうかと。アッシュは無意識に強ばっていた体から力を抜いて微笑った。常日頃から気を揉んでいることであったのだが、どうやらウィノナの無二の魅力というものはちゃんと伝わっているらしい。それはきっとアッシュがいなければ表には出てこないものだけれど、こうして自分が共にいれば彼女はきちんと受け入れられて、理解をしてもらえるのだと心から安堵した。
 突然のことに何も言えなくなってはいるが、ウィノナはやはりおろおろと、けれどもひどく嬉しそうに目を彷徨わせていた。ちらとアッシュを見るその目は城主の妻というより、むしろ――
「……そうだよ。だってウィノナは、僕のお姫様なんだからね」
 少女に寄り添うかのごとくしゃがみこんだアッシュが小さな頭を優しく撫でる。その顔は立派な城主のそれでもあり、たったひとりの妻を想うあたたかな夫そのものでもあった。
 

20200919