飛竜の節17の日

数年後

 アッシュが城主となってからのガスパール城は、以前よりも花の香りが強くなっているらしい。
 もともとロナート卿が花を好んでいたこともあり、城内のあちこちに草花を飾ったり可愛らしい花壇を構えていたりと、この城は非常に豊かな景観で名の知れた場所であったようだ。その事実はロナート卿みずからアッシュたちに植物の知識を授け、花を愛で命を慈しむような子に育てたところからも窺い知れる。旧帝国領寄りの立地にあることも相まって気候も穏やかで過ごしやすく、もはや豊穣の象徴にも等しかったこの城をさらに高め昇華していったのが、他でもない現城主のアッシュである、と思われる。
 なぜそう曖昧なのかといわれたら、ウィノナ自身に以前のガスパール城や領地に関する知識がほとんどないからだ。幼い頃は外に出ることも許されず、アッシュ以外の他人と関わる機会もほとんどなかった彼女にとって、ロナート卿という人物もガスパール城という場所も、出身地に連なるものというよりは愛する夫の宝物という印象のほうが強い。ウィノナからすればこの城はロナート卿の忘れ形見というより、嫁に入った先の家、という認識でしかなかったのである。
 だが城自体への思い入れが浅くとも、そこにアッシュが関わってくれば話はまた別だ。戦時中にはもぬけの殻……とまではいかずとも時勢もあってあまり綺麗にしてやれなかったし、ここにはロナート卿との思い出がたくさん詰まっているから出来るだけ大切にしたい、そう言っていたのは他でもないアッシュなのである。彼がそう言うならウィノナに背く理由などあるわけもなく、ひたすら彼の意向に従いこの城を大事にしてきた。彼とともに日々この城を良くしようと世話してきた。
 そうやって積み重ねてきた毎日の結果、今まで家というものに何の感慨もなかったウィノナにとって、このガスパール城は人生で初めて愛着を持てた「自分の家」であり、アッシュと共に育ててきたもう一人の子供のようなもの、いわゆる愛の結晶というに相応しいものになったのだ。
 だからこそだろうか、ここ数年は意味もなく城内を練り歩くだけで心が満たされるような気持ちになれる。花々の芳香や癒やしの効果だけでなく、たとえば小さなスミレの花、夏に咲くひまわりの笑顔、秋の紅葉や冬の雪、何を見たってこの城にはアッシュとの思い出が溢れているのだ。廊下の脇に飾られた花瓶は先日アッシュと買いに行ったもの。裏庭の花壇の隅にはついこのあいだ子供たちと植えたいちごの苗が咲っている。どこで何をしていても愛おしい人の残り香が感じられるこの城を、ウィノナはひどく好いていた。
 城内の見まわりという名の散策は彼女にとって毎朝の日課となっていて、今日もウィノナは城のあちこちで従者たちと挨拶や世間話を交わしつつ、軽く点検を済ませてから夫の眠る寝室へと戻ってきた。寝台に埋もれているアッシュは未だ起きる気配もなく、整えているはずの灰色の髪は寝癖がいくつも跳ねている。その無防備かつ可愛らしいすがたにかつて学び舎を共にした頃のまばゆい記憶が蘇った。
「アッシュ、アッシュ。お加減はいかがかしら」
 寝台にしずみ、夢うつつにまどろむアッシュへウィノナは優しく語りかける。窓掛けの隙間から射し込む日光が眩しいのか、ようやく目覚めたようなアッシュはぐずぐずとまぶたをこすって敷布の波に潜っていった。いつも早寝早起きを心がけるアッシュにしては珍しいお寝坊さんも、常日頃の疲労が溜まっているせいと思えばむしろ当然のことのようだ。
「うぅ……うーん……」
「あら、お目覚めになった?」
「んん……うん、ごめんね。……僕、なかなか起き上がれなくて」
「ふふ、いいのよ。いつも頑張っているのだから、今日くらいはゆっくりお眠りなさい」
「今日……? あれ、今日ってなにか、あったっけ」
 寝ぼけ眼とはまさにこのこと。とろんとろんの砂糖菓子のようにとろけきったアッシュは、寝台のふちにこしかけるウィノナの腰元へ額を寄せ、働かないらしい頭をうんうんと悩ませて言葉の意味を考えているようだ。やわっこい髪を撫でると優しくも愛おしい感触がして、姿勢に無理がなければ口づけのひとつやふたつを落としてやるのにとウィノナは少し肩をすくめる。
 思い当たるものが見つからなかったらしいアッシュは、やがて再び寝息でも立てそうなほどに落ち着いてしまった。さっきまでは申し訳程度にもぞもぞと体を動かしていたような気もするけれど、それでもやはりまどろみという束縛からは解放されなかったらしい。
 いつも規則正しく生活をしているアッシュがこのようにとろとろとしているのは珍しいといえば珍しいが、ここ数日は異常に騒がしくしていたのだから無理もないと思われる。昨日には国王が、一昨日には大司教が、そのまた前の日には旧帝国領からの貴族が挨拶にやってきていて、城主としての振る舞いを心がけようと緊張が続いたのだろう。
 彼は平民という出自ながらここ数年立派に務めを果たしているけれど、それでもさすがに連日の会合は疲労の程が段違いだし、特にこの二日でまみえた見知った顔のおかげではしゃいでしまったところもあるはずだ。なぜなら昨夜は興奮のあまりなかなか寝つけなかったらしく、遅くまで何度も寝返りを打っていたから。
 ふわふわの髪を梳きながら、ウィノナはまるで子守唄でも歌うようにささやく。こうしてゆったりとした時間を過ごすのはいつぶりだろうかと、彼女自身いまこのときに安らぎを感じているのだ。
「今日はね、飛竜の節の17の日。あなたの誕生日でしょう」
 ――誕生日。今日はアッシュにとって、もちろんウィノナにとってもとりわけ特別な日であった。
 優しい彼であるならきっと、今日という日に亡き両親への感謝を述べるのだろうと思う。実際そうしているところをウィノナは幾度も見てきたし、かつてデュラン夫妻が開いていた酒場の跡地へ赴いては思案にふける、そんな姿を少し後ろから見守ることだってあったから。
 もちろんウィノナだって彼らへの感謝の気持ちを忘れたことはない。夫妻はウィノナにとって誰よりも何よりも愛おしい人を、煤けた人生に光をくれた大切な人を産み、育ててくれた偉大な人たちだ。自身の母親に対する感謝などを吐く予定はこれっぽっちもないが、アッシュの父母に対してであればいくらでも賞賛の言葉を紡ぐことができると思う。叶うなら一度くらい会ってみたかったと思うけれど、しかしそれは決して叶うことのない願いだ。
「ねえ、アッシュ。お誕生日おめでとう。あなたが生まれてくれて……あなたが生きて、そばにいてくれて、私は本当に幸せだわ」
 規則正しくも穏やかな寝息を聞きながら、ウィノナはずっとアッシュの頭を撫でている。
 まばゆい太陽の光、窓の向こうにある木々の緑、さえずる小鳥たちの歌声。そのどれもがひどく穏やかに今日という日を祝福しているように思え、ウィノナは静かな空気に身を預けながらやわく微笑むのであった。

 
アッシュお誕生日おめでとう!!!
20201017