見えない、会えない、どこにもいない

夢主が死んでる

 さしものフェルディアとはいえ、亡骸をそのまま置いといたらそう遠くないうちに腐っちまう。……陛下、せめて美しいままの姿でお別れを言って差し上げましょう――シルヴァンの、落ち着き払ったようでいてどこか揺れるような声色が、未だこの両耳のなかでぐわんぐわんと鳴り響いている。わかった、と答えたはずのおのれの声が、驚くほどに震えていたことも。
 フェルディアの冬がひどく冷えることは、そこに生まれ育ったディミトリこそが熟知していることだった。あの街を覆う冷たさは何年経っても想像を絶するほどであるが、しかし四季というほど色鮮やかではなくとも一年を通して気候の変化はある。微々たるものであったとしてもそれが与える影響というのは決して少なくはないのだ、そう、それが亡骸に対してのものであるなら尚更。
 ディミトリは――救国の王ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは、ただ亡霊のように、小さな世界の真ん中にある粗末な造りの墓前にて、ただ呼吸だけを繰り返しながらぼうっと突っ立っていた。この墓に眠るのが誰なのか、そして、ここが一体どこであり、何のために造られた場所なのか。それはきっと彼らに連なる者なら誰もがわかることで、しかし誰にも知られたくない、知られてはならないことでもあった。
 ほんの数節前。この墓の下、冷たい土の中に眠る彼女は――ウィノナは、ひどくあっけなくこの世からいなくなってしまった。
 彼女はディミトリにとって特別な存在であった。最愛の妻でありそれ以上の存在でもある、彼らにしかない無二の絆がそこにあって、ディミトリは依存や執着という言葉ですら生ぬるい感情をずっとウィノナに向け続け、寄りかかるように生きてきた。それはともすると学生時代から片鱗はあったのかもしれなくて、出会ってから五年、十年、たとえ子供が産まれても関係に転機が訪れることはなく、彼らはまるで堕ちるように深く深く愛しあっていたのである。
 そんな関係を築くなか、ウィノナが文字通り突然いなくなってしまったことにより、ディミトリを襲うのは重く苦しい喪失感だ。それがどれだけ大きくて、ディミトリのボロボロの心にどれだけのものを遺してしまったのかは、きっと彼にしか……むしろ彼自身にすら、測れないほどのものだろう。
 彼女が簡単にこの手を離してしまったこと、もう二度と彼女を感じられないこと、笑いかけてもらえないこと、隣の空虚を抱え続けねばならぬこと。そのどれもが重くずっしりとディミトリの身にのしかかる。現実も真実も認めたくなどなくて、決して受け入れたくなくて、最後まで、本当にギリギリまで彼女の墓を建てることを拒んだ。けれど冒頭の……ずっと耳から離れないシルヴァンの言葉に負けて、渋々ではあるが小さく虚ろな墓を建てたのが、確か彼女が亡くなって一週間ほど経った頃だ。
 人の大きさに盛り上がった土と、不格好に突き立てられた石。それは王妃のものにしてはひどく簡素で滅茶苦茶なものであったけれど、それもディミトリがたった一人、ドゥドゥーにも場所を明かさないまま造ったものであるから仕方ない。彼はあまり器用な質ではないし、何より悲哀に満ちた両手はまともなものなど生み出せなかった。ひたすら別れを告げるように穴を掘り、惜しみながら亡骸を埋め、誰にも立ち入れないようなところで彼女の墓を造り上げた。あの骸も、骨のひとつも、彼女がどこに眠っているかも、たとえ子供たちにだって知られたくはなかったから。最後の最期に至るまで何もかも独り占めしてしまいたかった。子供二人にはいずれ大きくなったら連れて行こうと約束をして、けれど今のディミトリには――眼帯で多い隠された右の目には、その約束を反故にするおのれの姿が見えている。
 ウィノナはあっけなくこの世を去った。幼い子供を二人遺して、「ずっと一緒にいる」という約束すら破って、ディミトリの前からいなくなったのだ。
 きっかけは至極唐突に現れたもので、それは彼女が子供二人を連れて城下に降りていた日のことであった。気晴らしに買い物がしたいと申し出られたのだが、ディミトリは公務に追われて手が離せなかったため、渋々といった具合で家族三人を見送ったのだ。本当は自分もついて行きたくてたまらなかったのだし、あのとき無理矢理にでも同行していたら、前日にうたた寝などせず少しでも仕事を終わらせられていたら。そんなちょっとした運命の動きでこの結末は簡単に逃れられたかもしれないのに――悔やんでも悔やんでも悔やみきれない、後悔ばかりを胸に抱いてこの数節を過ごしている。
 あのとき。子供や城下の商人に又聞きした話であるが、どうやら突如として現れた闇に蠢く者の残党が凶刃をふるい、その切っ先が子供たちに向かわんとしていたところを、ウィノナが身を呈して庇ったということらしかった。結果、子供たちは怪我のひとつも負うことはなかったし、火事場の馬鹿力を発揮した彼女により残党もすべて駆逐することが出来たのだけれど、すべてが終わったその次の日、ウィノナはまるで眠るように、穏やかに息を引き取った。
 一緒にいられなくてごめんなさいね――その最期の言葉すら未だこの耳から離れてくれず、ふとしたときにこだまする。彼女に名前を呼ばれた気がして後ろをふりかえってみるけれど、しかしそこにいるのは空虚か、痛ましそうに顔を歪めるドゥドゥーやシルヴァンのみであった。
 ディミトリの前では気丈にふるまい、穏やかなように見えていたウィノナであったが、彼の目がないところではひどく苦しそうに死にたくないと嘆いていたらしい話を、彼女が亡くなって数日の頃にメルセデスから教えてもらった。悲痛に歪んだ級友の顔を見るに、きっと自分はまったく笑えていなかったのだろうと心の片隅にて理解をしている。
 人間は声から忘れていくというけれど、おのれの現状を鑑みれば確かに納得のできる話だ。ディミトリは未だ幻聴や悪夢に苛まれて続けているが、けれども今こうして頭の中に響いている声が、今際に叫ぶ断末魔が、果たして本当に父やグレンのものであるのかは実のところわからない。ただそう思い込んでいるだけで、彼らの口から出ている波であるという事実のひとつのみを切り取って、彼らの声だと判断しているだけかもしれない。こびりついているはずの叫びも、それが本当にそうなのか? と疑問を持ってからは足元がひどくグラつくような感覚を覚えたし、いつかウィノナの声も、顔も、匂いも感触も優しさも絆も、すべてを忘れるかもしれない未来が、風化していく記憶の粒がひどく恐ろしくて仕方なかった。
 ディミトリは未だ墓を眺めている。そして、前後左右を見まわしながら、また小さくため息をつくのだ。
 ――ずっと一緒だと約束したのに。それは別に彼女自身への恨み言ではなくて、今もなお足元に這いずる亡者のなかにすらウィノナの顔がまったく見えない、その現実に対するある種の苛立ちの声であった。
 何度探しても見つけられない。何度その人波を掻き分けても、夢の中を走り続けても、決してウィノナは現れない。
 ウィノナは亡者にならないのだ。
 否、生前の彼女のことを思えば納得できることではある。彼女は自分を愛してくれた。何よりも優しく、甘く、ずーっと愛を与えてくれた。それは妻として、姉として、時には記憶の片隅にある母のような形をして、ウィノナはいつだってディミトリに慈愛を向けてくれていた。
 だからこそあのウィノナがディミトリを苦しめんとする存在になるはずがないし、むしろ亡者と化すことのほうが違和感がある。ディミトリ自身それを痛いほどわかっているからこそ、ウィノナはここには現れないと理解しているし、きっと彼女を知る者ならばこの結果にも頷いてくれる。
 わかっている。頭ではきちんと理解していても、否、理解をしているつもりでも、しかし彼女という大きな穴を抱えた心にまでその事実は入らない。入ってほしくなんかない。たとえそれが正論で、当然で、真っ当な答えだったとしても、受け入れられないことくらい誰にだってあるだろうから。
「それでも俺は……たとえ亡者であったとしても、お前にそばにいてほしかったよ」
 誰もいない空虚に響くこの声は、果たしてこの土の中にいる彼女にまで届いただろうか。

20201216 加筆修正
20201115