小さなわがまま

 ふたりっきりで休んでいるとき、ひどく甘えたで蕩けてしまうディミトリのことが好きだ。ウィノナは今、誰もいない王の私室の中央に鎮座する寝台に寝転がり、愛すべき夫の体を優しく抱きしめている。
 ツヤの戻ってきた髪を撫でていると心が安らぐ心地がする。指通りの良い金糸は男にしては柔らかく、彼が丁重に育てられてきた王族であることを思わせるが……あの5年間で一度はひどく落ちぶれた獣のような姿になってしまったのがひどく痛ましい。もっともその凄惨な傷痕も少しずつであるが癒えてきたのが喜ばしいところで、その表れのひとつがこの髪の毛であると思う。
 ウィノナの肩口にはりつくディミトリは、彼女に痛みがない程度の力でぎゅうぎゅうと強く抱きしめてくる。もちろんそれはディミトリにとってはほんの少しの力でしかなくて、本当はめいっぱいの力で抱きしめてしまいたいのだろうけれど、彼の剛力でそんなことをしてはウィノナの体は無残にもひき肉のようになってしまうだろう。ゆえに彼は耐えている。おのれのなかにある欲の部分、一般的な人間なら簡単に叶えてしまえる欲求とすら彼は過剰に戦うのだ。ウィノナ自身も覚えのあるその葛藤は、この可愛くもいじらしい弟への愛おしさをつよくつよく募らせた。
 いじらしさに胸を震わせる反面、ウィノナには目下の悩み……というか、ちょっとした問題があった。それは生きている限り必ずぶちあたる壁でもあり、決壊してしまえば人としての尊厳すら傷ついてしまう、些細ながら重大な問題なのである。
「……ディミトリ。ごめんなさいね、私、そろそろ限界だわ」
 ぴくり。ウィノナの言葉にディミトリの肩が揺れる。「限界」という言葉にある種の恐怖を感じているのだろうか、先ほどまで安定していた彼の体は微細であるが震えていて――否、彼はわかっているのだ。ウィノナが何の限界を迎えようとしているのか、何を求め、訴えているのか。なぜなら数度ウィノナはその件についてディミトリに打診していて、けれども彼は甘えるように、遠い昔に捨て去ったわがままを拾い集めるように、決してウィノナの体を離そうとはしなかった。何があっても離れたくない、このままずっと、溶けるようにおなじになってしまいたい、そう言っていたのは果たしていつの夜だったか。
 ウィノナが軽く身動ぎすると、ディミトリは抑えていたはずの腕の力を強めてくる。女であれどウィノナ自身も武人だ。彼と同じブレーダッドの紋章と剛力を備えていることもあり多少の力であれば耐える自信もそこそこあって、けれどもこんなふうに切羽詰まった状況のなか、彼の子供じみた拘束を前にしては本来の力などそうそう発揮できるものではない。微かに軋んで痛む骨を思い、はあと小さくため息をついて再びディミトリの頭を撫でた。何かの決意を固めたようなその目はいささか据わっている。
「こうなったら奥の手だわ。ディミトリ、一緒に厠へ行きましょうか」
「かっ……!? ……さ、さすがにそれは、その――」
「あら、何度言っても離してくれなかったのだから、てっきり私はそういう意味なのかと……。私は構わないわよ、あなたが耐えられるというなら、だけれど」
 あからさまに狼狽えるディミトリは、たとえ眼帯で片目を覆い隠していようともその動揺のほどを隠し切れていなかった。孤独な環境にあれども結局彼は王子として育ったわけで、もしかすると彼のなかに「厠へ連れ立つ」という選択肢はなかったのかもしれない。貧民窟を渡り歩く過程で地獄のような世界を見てきただろうに、どう足掻いてもディミトリはディミトリで、このファーガスにおけるたったひとりの気高い王なのだ。
 どうするの、とウィノナが答えを求めると、ディミトリは渋々といった様子で両の腕を緩めウィノナを離した。寝台のうえで丸くなる彼はもはや幼子と言うに相違なく、その姿は彼をひとりにすることへの罪悪感をじわじわ募らせる。
 ただ前述の通りウィノナの限界はもうすぐそこにあるわけで、ここで彼を抱き返すだけの余裕も優しさも用意することはできなかった。人間として、女として、この国の王妃として、そして彼の姉として、決して失ってはいけないものがここにあるのだ。
 しかしそのままディミトリを放置しておくのも気が引けるので、寝台の隅に追いやられた枕を彼の腕に差し込んでやる。常用の枕なら残り香程度の何かはあるだろうと踏んで、「これを私だと思いなさい」と言い残してウィノナは部屋を発った。枕をぎゅうと抱きしめるディミトリはやはり子供じみた顔をしていて、拗ねたように頷く様子もまた、ひどく庇護欲をそそる風体であった。

 
20201018