「それじゃあ大将、行ってくるね」
いつもと変わらぬ愛らしい笑みを浮かべて、信濃くんはとうとう修行の旅に出発してしまった。
結局、その背中が見えなくなってもあたしはその場から動くことができなかった。共に見送ったんばちゃんは気遣わしげにあたしのことを見守ってくれているが、今はそれに笑顔で応える余裕がない。
「ごめんね、お屋敷に戻ったらすぐいつもどおりになるから」あたしがそう言うと、んばちゃんはため息混じりにあたしの頭を小突いてくる。
「ここの主だからといって、別に無理をする必要はないだろう」
「でも……」
「無理やり明るいふりをしても、余計に周りを心配させるだけだ」
呆れたような口振りではあるけれど、んばちゃんがあたしを心配してくれていることはその声色からひしひしと伝わってくる。
……優しいな、んばちゃんは。普段あんなにそっけないくせに、ここぞというときはいつもあたしに寄り添ってくれる。初期刀としてずっと一緒にいてくれているんばちゃんは、ひねくれてはいれどもあたしにとっては頼れる兄のような存在だった。
あたしがんばちゃんのありがたみを噛みしめながら鼻を鳴らすと、んばちゃんはやはりため息を吐く。けれど、決してこの場を離れようとはしなかった。
「なんかね、思い出しちゃった。初めて信濃くんと会った日のこと……」
あたしたちの間を吹き抜ける秋風は、まるで空気を読んだように侘しさを連れてくる。
刹那、あたしの脳裏によぎるもの。ひゅうと鳴る風を合図のようにして、あたしの人生と価値観を大きく変えてしまった「あの日」の記憶が、人知れず静かに呼び起こされた。
あたし自身あまり自覚はないのだけれど、どうやらあたしは霊力の性質が少々特殊なようで、霊力を注ぎ込んだ対象に自分の気質が反映されたり、はたまた似た気質のものを引き寄せたりしてしまうらしい。その結果うちの本丸にはいささか癖の強い刀が多く、おかげで毎日楽しく過ごせているというわけだ。
とはいえ、もちろんみんながみんなそうというわけじゃない。今あたしの隣にいるんばちゃんのように、あたしの影響が少ない子も存在する。おそらく、信濃くんもそうなのだと思う。
……ああ。たしか、あの日も今日みたいな秋晴れの日だったかな。乾いた秋空によく似合う赤髪と、チョコミントみたいな不思議な色の瞳は、未だ鮮烈にあたしのまぶたに焼きついたままだ。信濃くんの帰りを待つ三日間も、きっとあたしの脳裏からそれはなくならないのだろうと思う。
顕現したばかりの信濃くんは、その愛くるしい瞳を何度かしばたたかせたあと、すぐにあたしのことをとらえて笑ってくれた。そうしてさっくりと自己紹介を済ませたのち、「ねえ、懐入っていい?」と、お決まりの文句を言い放ったのだ。
けれど、当時のあたしはそれにうまく答えることができなかった。見守ってくれていたんばちゃんも、急に歯切れの悪くなったあたしを見てひどく訝しんだことだろう。
どうして何も答えられなかったのか――答えは至極簡単で、なぜならあのときあたしの胸は何も知らない子供のように、バクバクと大きな音を立てて戦慄いていたからである。
……信濃くんは、いったいどう思っただろうな。固まったまま何も言わなくなったあたしを、変な人だと思ったかな。帰ってきたら、その話もできるといいな――
「たった三日離れるだけなのに、こんなに寂しくなるなんて……あたし、ほんとに情けないや」
涙につまったあたしの吐露を、んばちゃんは何も言わずに受け止めてくれる。
その距離感がひどく心地よくて、あたしはなおさら滲んで揺れる自分のつま先を、しばらく見つめていたのだった。
2025/10/14
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