よぉく、味わって(ディルック)

 今日のおやつは楽しみにしておくといい――それだけ言い残して、ディルックさんは私室から出ていった。わたしはいつもと違う彼の背中を見送りながら、三時のおやつに思いを馳せていたのだけれど……

(す……すごくいいにおいがする。ちょっとくらい覗いても、いいかな――)

 手持ち無沙汰を慰めるために部屋を出た途端、わたしの嗅覚を甘い香りが刺激した。それはひどく覚えのある芳香で、わたしは自制もできずに忍び足でキッチンのほうへと向かう。
 少しだけ重たい扉を、極力音を立てないよう開く。わずかな隙間から中の様子をうかがうと、そこには予想外の見慣れた背中があった。

「覗き見とは感心しないな」
「わっ……わ、わあ! ご、ごめんなさい……っ」

 ディルックさんは背中に目がついているのだろうか。わたしが中を確認するのとほぼ同時に、変わらず背を向けたままでディルックさんは口を開いた。
 ば……バレてるなら、いいかな。怒られたわけじゃないし。わたしがそうっとディルックさんのほうへ向かうと、彼はちいさく笑みをこぼしながら立ち位置をずらす。
 かまどの火がわたしの視界に入らないよう、気を配ってくれているのだ。その優しさが胸にしみて、ほんの少し体温が上がる。

「君は相変わらず食い意地が張ってるらしい」
「え、そ、そうですか?」
「覚えていないか? 僕と初めて会ったときも、君はおいしいリンゴにつられて迷子になってただろ」

 ――ど、どうしてそんなこと覚えてるんですか! わたしは咄嗟に手のひらで口をふさぎ、喉から飛び出そうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
 あの日のことを覚えてくださっているのはとても嬉しいけど、まさかそんなふうに思われてたなんて……! わたしが何を言えばいいかわからず視線を彷徨わせていると、ディルックさんはちいさく肩を揺らす。くつくつとした笑い声は先ほどよりもずっと楽しげで、嬉しいような、恥ずかしいような……

「アップルパイを作ってるんだ。完成したら一緒に食べよう」
「う……は、はい……」
「今日のは自信作だからね。きっと君も気に入ってくれるはずだよ」
 
 ディルックさんのお料理が食べられて嬉しいとか、アップルパイが大好きなこととか。伝えたいことはもっとたくさんあるのに、わたしは先立っての羞恥心で頭がいっぱいとなってしまい、満足に口を動かすことができなくなっていた。

あなたが×××で書く本日の140字SSのお題は『甘い香りに』です

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2024/09/23