隠し味は気遣い

「――もうっ、皓月お兄さん! こんなところで寝てちゃダメだよ」

 頭上から降りかかってきた声に目を開ける。刺すような日光に瞬きを繰り返しながら、人の形にくり抜かれたシルエットをじっと見つめていた――その影の主が眉をつり上がらせているのに気づいたのは、ようやっと光に目が慣れてきた頃のことだった。
 ソイツはいつも、風が運ぶイチョウの香りとともにオレの前に現れるのだ。

「おお……オマエか。どうしたんだよ、こんなところで」
「どうしたもこうしたもないよ! 師匠がお兄さんのこと探してるの」
「歌塵浪市真君があ? いったい何の用で――」
「そんなの、わたしは知りません。とにかく、はやく起きてくれないと困るよ」

 ほら! とやけに張り切りながら、ソイツは寝転がっているオレの手を無理くり引っ張ってきた。このまま腕がちぎれてはたまらないので、ご要望どおりに体を起こし、幼い背中についていく。彼女はオレが背中についた葉っぱを払う最中でさえも、この手をいっさい離そうとしなかった。オレがどこかへ逃げてしまうとでも思っているのだろうか。
 まだまだ年端もいかぬはずの手のひらは、仙人のもとで鍛錬に励んでいることを表すかのように、いくつかマメができている。年齢不相応に凹凸のあるそれに、ほんの少し感慨を抱いた。
 そこにあるのは凹凸のみならず、いくつかの切り傷まで散見する、まだまだあどけない手のひらだが――ああ、指先に包帯が巻かれているのは、先日オレに振る舞うための料理で火傷を負ったからだったか。

「お兄さんをちゃんと連れて帰らないと、わたしまで師匠に怒られちゃうんだから――」 

 口調は呆れたようであるのに、その声色はどこか弾んでいるようで、ませた振る舞いの奥にある無邪気さをちっとも隠せていない。
 ひどく、愛嬌のある子供だった。周りのことをよく見て、気立てもよく、何よりたいそう一途な性分である。それは彼女が大人になっても変わらなくて、オレがこの子供の求愛を受けてしまったのも、このまっすぐで芯のある気質に惹かれたせいなのかもしれない。
 そして――その身に注いだ愛情や何気ない記憶、しあわせだったかけがえのない思い出たち。それらすべては千年以上が経った今もいっさい色褪せることなく、オレのなかに確かに残っているのである。

 
  ◇◇◇

  
「――ぃに――ねえ、桉樹にぃに! こんなところで寝てたら風邪を引きますよ――」

 ――夢を見ていた気がする。何度か瞬きを繰り返すと、視界のなかでまんまるのお団子が揺れているのに気づいた。お団子はやがて目覚ましのように軽快な音を鳴らして、オレの意識を覚醒させる。同時に璃月港の喧騒を一気にこの耳へと連れてきて、オレの心臓をどくりとおおきく脈打たせた。
 目の前のお団子――もとい、大鈴をあしらったヨォーヨは、オレが目を覚ましたことに安堵したのか、琥珀の瞳を一瞬で喜びの色に染める。璃月という土地をあらわすようなその色は、寝起きの日光よりもきつく両目に刺さった。

「……おう、ヨォーヨか。どうしたんだよ、こんなところで」
「どうしたもこうしたもないよ。偶然ここを通りかかったらうたた寝してる桉樹にぃにを見つけたから、風邪引いちゃいけないと思って声をかけたの」
「はは、そっか。あんがとな」
「どういたしまして!」

 ……眠ってしまっていたのか。確か、さっきまではぼうっと通行人を眺めていたはずなのに、よもやその最中に意識を失ってしまうとは。
 手頃な場所に腰掛けて行き交う人々を見ながら思案にふけるのは、オレにとってささやかな楽しみのひとつであるのに――もしかすると、少しばかり疲労が溜まっているのかもしれない。
 こわばった体をほぐすように何度か背筋を伸ばしていると、ヨォーヨは再びオレの顔を覗き込み、ぱち、ぱちと瞬きを繰り返した。そして、ふくふくのほっぺをひときわに膨らませながら、オレの前に立ちふさがる。……少しばかり嫌な予感がしたのは、きっと見当違いのことではないだろう。

「桉樹にぃに、少し顔色が悪くないですか? こんなところでうたた寝してたし、もしかしてちゃんと寝てない?」
「あ……はは、まさか。んなこたぁないって。ちょっと……まあ、寝覚めが悪かっただけだよ」
「えっ……大変、それを早く言ってくださいな! 待っててね、ヨォーヨが何か栄養のあるものを用意してあげますから。近くに師姐のお店があるから、少しなら台所を借りられると思うの」
「オマエ、しばらく万民堂には行ってないって――」
「そんなことはいいの! 今はにぃにの体のほうが大事ですからね」 

 言うやいなや、ヨォーヨはオレの返事も待たずに手を引いて走り出す。ちいさな両足が動くたびにオレの身は否が応でも前へと進み、璃月港の人波をかき分けて、万民堂へと近づいていった。
 
 ――この世に夢の魔神がいるとしたら、もしかするとソイツはオレのことをたいそう嫌っているのかもしれない。よもやヨォーヨの顔を見る直前にアイツの夢を見せるだなんて、なかなかに性格の悪いことをしてくれる。おまけにイチョウの香りまで一緒に連れてきてくれるのだから、今ばかりはおのれの五感を切り落としたくて仕方ない。
 世界は、オレにアイツのことを――唯一無二の亡き妻のことを、忘れろと言っているのだろうか。それともずっと引きずって、この場で停滞を続けさせようとしているのだろうか……わからない。オレには何もわからなかった。半端な存在となってもう千年以上が経つが、未だにオレはこの身がここに存在する意味も、何のために生を続けているのかも、時おり見失ってしまうのだ。
 アイツとの間にできた子供たちを見守っていく、子々孫々の繁栄を見届けるだけの人生は、喜ばしくもあれど時にどうしようもない孤独をオレに与えてくれる。そして何より、アイツによく似たヨォーヨの存在がオレの決意をひどく揺さぶり、安定の皮を被っていた日々をどんどん突き崩していくのである。
 ……ヨォーヨに罪はない。ただこのオレがアイツのことを少しも忘れられず、ちっとも前に進めないのが、すべての元凶なのである。

 考え込んでいるあいだに、オレたちはとうとう万民堂へとたどり着いていた。
 到着した途端にヨォーヨはオレの手を離し、適当な座席に座らせて、香菱とひと言ふた言交わしてから厨房のほうへ入っていった。ヨォーヨに何かを頼まれたのか、やがて香菱がお冷やを持ってオレのもとへとやってきてくれる。

「桉樹兄さん、大丈夫なの? ヨォーヨがすごく心配してたよ」
「……そんなに?」
「あはは、ちょっと大げさな気もするけどね。……でも、言われてみれば少し顔色が悪い気もするかな。ヨォーヨが『桉樹にぃにに元気が出るものを作ってあげるの!』って張り切ってたから、それを食べればすぐに良くなると思うけど……どうしても無理そうだったら、ちゃんと白先生のところに行ってね」
「ウッス……」

 オレの苦々しい返事を受けて、香菱はけらけらと笑いながら厨房のほうへ戻っていった。本来なら彼女が料理をするのだろうが、きっと二人の間で何かしらの交渉があったのだろう。
 ……なんだかどうにも大事になっている気がする。璃月の人々は何年経ってもお節介なほどにあたたかく、その優しさに救われてきたのは紛れもない事実だ。特にアイツを亡くした直後なんか、近所の人たちが代わる代わるオレのところにやってきて、花を手向けたり、差し入れをくれたり、思い出話をしてくれたりしたっけ。
 ――オレは璃月という国も、そこに暮らす人々のことも愛している。そうだ、だからこそ生きる道を選び、こうしてこの地の生きとし生けるものたちを見守っていくと決めたのに。……こんな簡単なことを忘れて思い悩んでいたとは、どうやらオレは思った以上に気が滅入っているのかもしれない。

「――桉樹にぃに、お待たせ! ヨォーヨの得意料理、軽策家庭料理ですよ〜」

 店内に充満する唐辛子の香りを、肺いっぱいに吸った頃。オレの目の前には、大皿に盛りつけられた軽策家庭料理がどん! と現れた。あたたかな湯気に彩られたそれはオレの食欲を存分に刺激し、口の中を唾液でいっぱいにする。気を利かせた香菱が白米を添えてくれたようで、ひとたびオレは食欲にすべてを支配された。
 ヨォーヨに断りを入れて、いただきますの挨拶をしたのち、シイタケやキャベツ、ハスの実などをまとめて小皿へと取り分けた。それらを一気に口のなかへと豪快に放り込む。熱々の具材たちは噛むたびに体中へと活力を行き渡らせ、曇った視界が瞬時にクリアになったような気さえした。
 ――うまい! 口をついて、子供のような感想が飛び出していた。オレの稚拙な感想にヨォーヨはくふくふと笑っていて、「よかったです」と続けた。 
 ……懐かしい味がする。初めて食べたはずなのに、まるで古巣に帰ってきたような安心感がオレの体を包み込んだ。ともすれば涙腺が緩みそうになるのをなんとかこらえ、今度は白米を口の中へと運ぶ。

「えへへ……桉樹にぃに、食べてるとちょっとだけ子供みたいだね」

 満足気に笑うヨォーヨは、頬杖をつきながらオレのことを見守っている。……同じだ。その振る舞いもやはりアイツにそっくりで、オレは軽策家庭料理に舌鼓を打つ傍ら、胸のうちをぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
 おのれの迷いを一緒に噛み砕きながら、オレは黙々と軽策家庭料理を味わった。自分でも驚くほどのスピードでこれらを腹のうちにおさめ――ちゃんと噛むようにとたびたび叱られながら――米粒や種のひとつも残さず、大皿をまるっと完食する。
 ――ごちそうさまでした! オレが手をあわせてそう言うと、ヨォーヨがひどく微笑ましそうに目を細めるのが見えた。

「お粗末さまでした。……どう? 桉樹にぃに、元気出た?」
「ああ。おかげさまで、今なら璃月の端から端まで走りまわれそうだぜ。……ほら、たとえば嘉明みたいにさ」
「それはちょっと元気になりすぎな気もするけど……とにかく、桉樹にぃにが元気になってくれて、ヨォーヨは安心しました」

 また何かあったら、すぐヨォーヨに相談するんですよ――幼い体にたくさん詰まった包容力を惜しみなくさらけ出して、ヨォーヨは笑う。
 アイツの面影がちらつく言葉を、未だにオレはまっすぐ受け止めることができない。彼女の好意に甘えたり、距離を近づけたりするようなことも。
 それでも、その気遣いに曇りや打算がないことはきちんと理解しているつもりだ。だから邪気のないまっすぐな優しさを否定することはしたくないし、撥ねつけるようなことも極力は避けたい。何もかも、オレがただ冷静になれないのが問題であるから。
 ゆえに、今はせめてその優しさを曇らせることがないよう、その頭を撫でてやりたい。それこそが、今のオレにできる精いっぱいの返答だから。

 
2024/09/22