break time

数年後設定

 

 

 チャンピオンとなって早数年。ぼくは利便を考えて、つい最近ナックルシティに引っ越した。
 そらとぶタクシーといった交通手段こそあるが、それでもやはりチャンピオンの職務というのは思っていたより何倍も忙しく過酷だ。ひどいときには最北端のシュートシティから最南端のハロンタウンまで何度も往復する羽目になるし、そのうえ各地で笑顔を振りまき、衆目に晒されることを思うとその心労は計り知れない。かつてひたすら憧れていただけのダンデさんの偉大さというやつを、チャンピオンという同じ土俵に立って尚さら突きつけられている。
 移動時間を休憩に使いたい、少しでもプライベートにあてたい。人目のない場所でのんびり過ごしたい。そんなことを思うようになった頃にはぼくもそれなりの年頃になって、ひとり暮らしに不便や心配がない程度の責任感を得るようになっていた。
 ……もっとも、別に今のぼくはひとり暮らしをしているわけではないのだけれど。

「ただいま……っと、うわ!」

 ぼくが玄関のドアを開くや否や、どこから帰宅を聞きつけたのか飛び出してくるのはヨクバリス。パワフルかつ人懐っこいこのヨクバリスは例に漏れずぼくにも非常に懐いてくれていて、家に帰ってくるたびぼくに思い切りたいあたりしてくる。
 最初こそ痛い目にあっていたこの行為にも今ではすっかり慣れてしまって、気づけばひらりと身をかわしたりエースバーンに相対させたりするのも随分とうまくなった。近頃はむしろエースバーン自身が勝手にモンスターボールから出てきて、飛びついてくるヨクバリスをその身で受けてくれるようになるほど。二匹のじゃれつく姿は疲れた心へのささやかな癒やしとなっている。

「……あ、マサル! おかえりなさぁい」

 そして、帰宅早々の騒ぎに少し遅れてやってくるのはぼくの同居人。恋人になって久しい、元同期のリナリアだった。
 かつてはジムチャレンジの同期でしかなかったぼくたちだが、ぼくがチャンピオンになってしばらくのうちに今の関係になった。今やホップやマリィにも呆れられるほどの仲になり、ナックルシティに移り住むときには彼女に同棲を持ちかけたほど。
 もちろんリナリアからは二つ返事をもらって、晴れて一緒に暮らすようになってから、もうそろそろひと月となる。

「お疲れ様。今日は早かったんだね」
「うん。ここしばらく忙しかったし、ちょっと無理言って帰ってきちゃったんだ」
「そうなの? あーでも、そうだよね。最近ずっと出ずっぱりだったもん」

 じゃあ、今日はこのあといっぱいゆっくりしようね。
 そう言いながらぼくの荷物を持ち、リナリアはそそくさと奥に戻ろうとする。おそらくぼくの着替えや諸々を用意してくれるのだろう。
 けれど、今のぼくにその気遣いは不要だった。不要というか、もっとほしいものがある。誰にでもできることじゃない、彼女にしかない無二のものだ。
 ぼくはリナリアの背中に向かって呼びかけ、彼女をその場に留まらせる。訝しんだ彼女が振り返る前に細い体を抱きすくめ、ぎゅうと体重をかけてやった。空気を読んだヨクバリスとエースバーンがぼくの荷物を運んでいくのだけ見送って、丸い肩に顔を埋める。

「マサル……? 大丈夫なの?」

 不安げなリナリアの声を聴きながら、顔をひっつけたまま頷いてやる。ぼくの返事に納得したのか否か、リナリアはうーん、と何か考え込む素振りを見せたようだが、なんとなく気づかないふりをした。
 やがてリナリアはぼくの手に手を重ね、そっとダイマックスバンドを外す。これはぼくらの間にのみある合図のようなもので、これを外せばぼくはただのぼくに戻れるのだ。

「お鍋、ちゃんと火とめてきたから。いっぱいくっついても平気だよ」

 ささやくような甘ったるい声に、脳髄までもが痺れるような感覚をおぼえる。
 きみはぼくに救われたと言うけれど、ぼくのほうこそどれだけきみに救われているか。きっときみは、全くわかっていないのだろうな。
 ただそばにいて、ぼくを受け入れて。「ガラルの新チャンピオン」ではない「ただのマサル」と目を見て話してくれる、抱きとめてくれるきみの存在に、ぼくはいつだってこの心をすくいあげられている。
 リナリア、と名前を呼ぶ。なあに、と返ってきた声はやはりひどくまろやかであって、凝り固まった緊張やプレッシャーが、ゆっくりと溶かされていくようだった。

 
20210514